誘惑 第三部 6 - 10
(6)
カレンダーを見てしまうのは、今日、一体何回目だろう。実際には何も印がついているわけでは
ないけれど、ヒカルの目には大きく赤丸がつけてあるように見えてしょうがなかった。
今日は塔矢が日本に帰ってくる日だ。
だからって何かが起こる訳でもない。帰ってきたからって、きっと何も変わらないのに。
「ごちそうさま。」
そう言って、自分の部屋に戻ろうとしたヒカルに母親が声をかけた。
「あ、ヒカル、冷蔵庫にプリン入ってるの。食べなさい。」
Uターンして冷蔵庫を覗くと、高級そうな洋菓子の箱が入っている。その箱を引っ張り出して中の
プリンを一つと、スプーンを持って食卓に戻った。
「どーしたの、これ?」
「今日ね、お母さんの友達が遊びに来て、お土産に、って持ってきてくれたの。」
「へーえ、美味そう。いっただきまーす。」
一口食べてみて、ヒカルは「美味い、」と思わず声をあげた。滑らかで濃厚な口当たり。やはり
コンビニの100円のものとは味が違う。
そう言えば一時期コンビニプリンに凝ってた頃があったなあ、とヒカルはふと思い出した。
そしてその思い出は別の思い出を引き寄せた。
今食べてるプリンなんかよりも、もっとずっと甘いささやき声の記憶。
「甘いね」「もっと食べてもいい?」
やばい。涙が出そうだ。プリン食べながら泣いてるなんて、大馬鹿だ。
慌てて食べ切ってしまおうとして、口の周りにこぼれたカラメルソースを指先でぬぐった。
「そんなに慌てて食べるから食べこぼすんだよ。」
クスクス笑いながら言う声が耳によみがえる。
もう嫌だ。もう思い出したくないのに。
あいつとオレとは、もう何の関係もないのに。
ただ、碁界という、同じ世界に生きてる人間、それだけなのに。
(7)
玄関のチャイムが鳴るのが聞こえて、ヒカルの身体がビクッとふるえた。
何を考えているんだ。今、あいつの事を考えていたからって、あいつがうちに来るはずがないだろう?
バカな事、考えるな。大体、来るなって言ったのはオレなんだ。それだって、もうずっと前の話だ。
「はーい、」と言いながらお母さんが玄関へ向かう。ドアを開ける音がする。
ひさしぶりね、とか何とか客と話している声が聞こえる。
ほら、あいつのはずがない。近所の人かな。こんな時間に、珍しい。
「ヒカル!」
玄関からヒカルを呼ぶ母親の声がした。
ヒカルの手が止まる。
「ヒカル、塔矢くんよ。」
一瞬、心臓が脈打つのを忘れた。そして次の瞬間には激しく暴れだした。
スプーンを持った手が震えているような気がする。
「ヒカル?」
母親が食卓へ戻ってきてもう一度ヒカルに声をかけた。
「塔矢くん待ってるわよ、どうしたの?」
「う、うん、なんでもない。今行く。」
声が震えそうになるのを必死で押し隠して、ヒカルは腰を上げた。
なぜここへ。何しに。今更。
(8)
玄関に思いつめたような表情のアキラが立っていた。
アキラを目にして、ヒカルは血液が逆流するような気がした。目も、耳も、身体も、心も、何もかも
がアキラに向かって引き寄せられる、そんな気がした。
でも実際は廊下に出たところで立ち止まってしまって、動けなかった。声も出せなかった。
会いたかった。会いたくて、会いたくて、死にそうなくらいだった。どうして。どうして今頃になって、
オレがこんなに必死におまえを忘れようとしてるのに、今更、会いに来るんだ、塔矢。
アキラが顔を上げてヒカルを認めた。一瞬、戸惑ったような顔をして、それから小さく、ぎこちなく、
ヒカルに微笑みかけた。そして何か言い出そうとして軽く口を開き、けれど声が出ない、というよう
にまた唇をかみ締めている。ヒカルはその口元から目が離せなかった。
「ヒカル、どうしたの?あがって頂いたら?」
背中に母親の声がかけられた。
「あ、いや、えーと…」
どうしよう。どういうつもりで来たんだろう。そう思ってアキラの方を見た。
「…久しぶり、だね。」
ようやくアキラが口を開いた。懐かしい声。
「突然、ゴメン。ちょっと出られない?」
「わかった。」
それだけ言ってヒカルは踵を返してアキラに背を向け、自分の部屋へ向かった。
ジャージをジーパンに履き替え、とんとんと階段を降り、母親に、
「お母さん、オレ、ちょっと出てくる。」
と声をかけた。
(9)
玄関にアキラが待っている。
ヒカルが靴を履こうとすると、スペースを空ける為に、すっとアキラの身体が動いた。
その動きに、ヒカルが一瞬止まった。止まってアキラを見る。アキラの目が何かもの言いたげに
自分を見ている気がする。忘れる事なんて、できるはずがなかった。この黒い瞳を。真っ直ぐな
眼差しを。
一瞬、ここがどこであるか、今がどういう状況なのかを忘れて、いつものように――以前のように、
彼を引き寄せて、唇を重ねてしまいそうになった。
だがヒカルが腕を伸ばした瞬間に、アキラが視線をそらせたので、ヒカルは行き場を失った手を
ぎゅっと握り締めて、そして自分もアキラから視線をはずして、スニーカーの紐を結び直した。
(10)
家を出て、ヒカルは無言で歩き始めた。その後ろからアキラがついてきた。
ヒカルの足は近所の公園を目指していた。昼間は子供たちの声で賑やかな公園も、夜になると
ひっそりと静まり返っている。
ヒカルは足を止めて、振り返り、
「何。」
と、ぶっきらぼうに尋ねた。
「何の用?」
「キミに、言いたい事があって、来たんだ。」
硬い声でアキラが答えた。
「だから、何。言いたい事って。」
ヒカルの冷たい口調に、アキラが怖気づいているのがわかる。
何も言わないでいい。今、おまえがオレに会いに来てくれただけで、それだけで、いい。
またおまえの顔を見れただけで、それだけで、いい。そう言ってしまいそうになる。
ヒカルの問いかけに、アキラは躊躇するように眉を寄せ目を閉じ、けれどそのためらいを打ち切る
ように目を開けて真っ直ぐにヒカルを見つめた。
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