誘惑 番外 6 - 10
(6)
棋院のトイレでおざなりな処理をして、投げやりな気分で戻ってきたオレは、大部屋に足を踏み
入れて、そしてまた、一目でアイツを見つけてしまって、自分を呪いたい気分になった。
探したわけじゃないのに、オレの目は吸い寄せられるようにアイツの後姿を捕えてしまって、目を
離す事ができなかった。
前から目立って、集団の中でも一人で光ってるようなヤツだった。
その光が、今日は一段と強いような気がした。オレだけじゃなく、誰もがきっとそれを感じていた。
でも、その理由を知ってる奴はオレともう一人しかいないだろう。
朝、塔矢が来る前にそいつを見た時から、何となく、その事を感じていた。
ぐるっと頭を回して、オレはそいつを探した。
そいつは自分の視線を隠しもしないで、嬉しそうに誇らしげに、じっと塔矢を見ていた。
なんて顔をしてるんだ、進藤、おまえは。
ちょっと前まで進藤の顔にあった悲壮感なんてどこにも無かった。
喜びに満ちた、キラキラと輝くような目で、進藤は塔矢を見ていた。
だからオレはきっとあの一言を聞く前からわかってたんだ。
「塔矢を待ってるんだ。」
それだけで、一時、離れてた二人が、前以上に固く結びついて、塔矢はもう一度進藤を得て、進藤
はもう一度塔矢を得て、それでこいつ等はこんな周りを圧倒するようなな光を手に入れたんだって
事を、オレはその一言だけで思い知らされてしまった。
ああ、やっぱり、としか思えなかった。
(7)
「塔矢を待ってるんだ。」
進藤は堅い声で繰り返した。
「そっ…か、」
オレはそれだけしか言えなかった。
塔矢と進藤がおかしくなってた原因の一端はオレにもあって、オレは進藤を泣かせてしまって酷く
後悔した。オレはこいつの友達として、こいつに悪い事をしてしまったと思ってたし、オレのせいで
落ち込んでたこいつが元気になればそれは嬉しい。だからホントは、良かったなとか、がんばれよ
とか、言うべきだったのかもしれないのに、オレはそう言いたかったのに、でも何も言えなかった。
オレは進藤に笑いかける事もできなくて、あいつの前で自分を保っている事ができなくて、
「じゃあな、」
と、やっとの思いでそれだけ言って、あいつに背を向けて歩き出した。
動揺を隠して普通を装って歩いていた足は、棋院会館を出た頃には早足になり、気が付いたら
オレは走り出していた。
一刻も早くあそこから遠ざかりたかった。
見たくない。
当たり前みたいに塔矢を待ってる進藤なんて。
進藤を見て笑う塔矢なんて。
幸せそうにあいつら二人が並んでる所なんて。
見たくない。
もう嫌だ。
どうして。
どうして進藤なんだ。オレでなく。
どうしてオレじゃダメなんだ。
どうしてなんだ、塔矢。
オレだって、塔矢、オレだっておまえが好きなのに。
(8)
気が付いたらオレは自分の部屋に帰ってきていた。
しかも知らないうちに泣いてたらしい。顔がぐちゃぐちゃだ。
「塔矢…」
乱雑に散らかった部屋の真ん中に、ごろんと仰向けに転がって、天井を見つめてアイツの名前
を呼ぶと、また視界が歪む。
「塔矢、好きだ。」
言った所で誰に届くでもない言葉を、自己満足のように口にする。
「おまえが好きだ。好きなんだ、塔矢。」
それなのに、記憶に残る塔矢はオレに悲鳴みたいな声を投げつける。
『キミなんか大っ嫌いだ。』
記憶の中の塔矢はそう言って、泣きながらオレを詰る。
あんな塔矢がいるなんて、オレは知らなかった。想像もつかなかった。衝撃的だった。
いっつも偉そうで人を見下してて、自分は違う世界の人間だ、みたいに、何を言っても何をしても
平然としてる塔矢が、あんな風に子供みたいに泣くことがあるなんて、ショックだった。
そしてオレは、オレの幻の中で、ボロボロと涙を流しながらオレを見てる塔矢に向かって言う。
でも、それでもオレはおまえが好きなんだ。
おまえがオレを嫌いでも、大っ嫌いだって言っても、それでもおまえが好きなんだ。
(9)
泣いていた塔矢。
ホントは泣くなって言ってやりたかった。激情に身を震わせるアイツを、ぽろぽろと涙を流すアイツ
を、抱きしめて、髪を撫でて、泣くんじゃないって、慰めてやりたかった。
でもアイツはオレの手なんか必要としてなくて、オレが伸ばした手を振り払った。
アイツが泣いてたのはきっとオレのせいで、でも、オレのために泣いてたんじゃない。
そして今、泣いてるのはオレだ。
アイツが欲しくて、アイツを諦めきれなくて、でももう手が届かない。その事を思い知らされてしまっ
て、オレは泣くことしかできない。
あれはきっと夢だ。マボロシだったんだ。オレの妄想に過ぎなかったんだ。
アイツがここにいたなんて。オレがアイツを抱いていたなんて。
そんな事が現実にあったはずがない。
アイツの媚態も嬌声も、しなやかに反る身体も、熱く柔らかくオレを呑み込んだアイツも、全部
現実なんかじゃない。オレの妄想だ。妄想に過ぎないんだ。
その妄想に煽られてオレの手はみっともなく下半身に伸びる。
「塔矢…塔矢、」
目の裏にあの時の塔矢の白い細い身体を思い浮かべながら、アイツの声を、アイツの匂いを、
アイツの肌触りを、アイツの熱さを思い出しながらオレはオレ自身を弄り、そうして気付いたら
オレはいつものように自分の手の中に欲望を吐き出している。
(10)
何度こんな事を繰り返したら終わらせられるんだろう。
情けなくて、馬鹿馬鹿しくて、それでも諦めきれない絶望的な恋に、オレはもう笑うしかできない。
恋?
馬鹿馬鹿しい。
何を言ってるんだ、オレは。
オレだって塔矢だって、それに進藤だって、男なのに。何が恋だ。恋愛だ。
そして男同士のクセにできあがってるアイツらもアイツらだけど、それに横恋慕してるオレはもっと馬鹿だ。
可能性なんか0.00001%も無いってわかりきってるくせに、それでも諦めきれないオレは大馬鹿だ。
こんな馬鹿な事をいつまで続けなきゃいけないのか、オレは知らない。
おわり
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