闇の傀儡師 6 - 10
(6)
トクントクンと胸の中で心臓が脈打ちかなりの息苦しさを感じていた。汗で前髪がべったりと
額に貼り付き、夜着もしっとりと湿っている。そーっと腕を動かすとちゃんと動く。
「ゆ、夢か…」
ほおーっと大きなため息をついてヒカルは上半身を起こした。頭の芯が痺れるように重い。
「夢にしては、生々しい感触だったぜ…くそっ」
夜着代わりのジャージの股間の部分が特に濡れている気がして慌てて下着ごと下ろしてみると
自分自身が夢の続きを求めるように熱を持って頭を擡げて脈打ち、雫を漏らしていた。
ヒカルはパッと赤くなって慌ててティッシュを2〜3枚手に取ると布団をかぶり、処理した。
机の上から例の写真が2枚とも消えているのにヒカルが気がついたのは朝になって出かける間際の事だった。
その日、棋院会館での大手合いの対局室でヒカルは苦戦していた。
相手は中段位程度とはいえ、今朝の夢といい写真の事といい嫌な感じで頭がもやもやして
集中しきれないのだ。
最後の最後までもつれ込み、ヨセの勝負で僅差で何とか拾い勝ちした。
ふーっと大きく息をついて相手と挨拶を交わした時、背後に突き刺さるような視線を受けて
ハッとなって振り返り、その相手を認めてもう一度ハアーッと息をついた。
「おどかすなよ、塔矢…」
二人で対局室を後にする。
「おどかしたつもりなどない。何だ、進藤、今の対局は。君らしくない。」
「オレだって調子の悪い時があんだよ。」
「どこか体の具合でも良くないのか?それとも何か気に掛かる事でも?」
本気で心配そうに覗き込んで来るアキラの顔を見て、ヒカルは写真の件を話そうか迷った。
(7)
だが、アキラにどうやって説明したらいいのかヒカルにはわからなかった。
「…ううん、何でもない。」
「何でもないという顔にはとても見えないが。」
「ホント、たいしたことじゃないから。」
そう言ってヒカルがアキラの前から離れようとした時、「進藤くん、」と棋院の職員に
声を掛けられ呼び止められた。職員は小脇に抱えていた書類の間から何かを取り出した。
「これ、君宛への手紙が来ていたんだよ。」
「えっ…」
職員が差し出したそれは間違いなく例の手紙だった。
少し厚手の白地になんの変哲もない封筒。やはり住所と名前が書いてあり切手も貼ってある。
そして消印がない。当然裏には何も書いてない。
「それが不思議なことに、対局室の階の玄関先に置いてあったらしいんだ。午前中はなかったから、
誰かがつい先程直接置いていったみたいで…」
手紙を受け取ったヒカルが手紙を凝視して押し黙っているため、職員も心配そうになった。
「DMとか妙な手紙のようならそのままうちで処分してもいいよ。シュレッダーもあるからね。」
「あ、いえ、いいんです。すみません。」
ヒカルは軽く頭を下げると手紙を握りしめて棋院会館の外へ出た。
すぐにアキラが追って来た。アキラはヒカルと職員のやり取りを聞いていた。
「進藤、気に掛かる事とは、その手紙のことなのか」
ヒカルはしばらく黙ったままアキラの前を歩いていたが、意を決したように立ち止まり、
振り返った。
「塔矢、…オレ、気味悪いんだ…。」
(8)
自分以外の者と封筒の中身を見るのは決意が要った。だが今後もこういう事が続くとしたら
いずれは誰かに相談しなければならない。アキラなら信用出来る。
棋院の近くの公園のベンチに二人で座り、ヒカルは思いきって手紙の封を開けた。
まず先にヒカルだけが中を見た。写真は2枚入っていた。
同じ人形が全裸で、1枚は浴槽に浸かり白い泡を纏っているもの。そしてもう1枚は、
全裸の体を赤い紐で奇妙な縄目模様に縛られているものだった。
ライティングのせいか、やはりどちらも人形の恍惚とした表情の妖しげな雰囲気を強めている。
見ているだけで何だか今にも自分の体にその赤いヒモが巻き付いて締め上げられるようで息苦しく
なり、ヒカルの顔から血の気が引いた。横でその様子を見ていたアキラが写真を覗き込んだ。
初めそこに映っているものの意味を理解しかねたように呆然と見入っていたアキラだったが、
驚いたようにヒカルの手から写真を奪い見つめ、人形がヒカルを模したものと判ると
すぐに眉間に皺を寄せて唇を噛み締め写真を破り捨てた。
「悪い冗談だ。こういう写真を送って来て何が面白いんだか。」
「塔矢、お前はこういうの受け取った事あるのか?」
「しょっちゅうだよ。アイコラっていうか…その、アイドルとか男女とかの
裸の写真にボクの顔を組み合わせやつとか、変な下着を送ってくるとか…」
「変な、ってどんなの?」
「ほとんどヒモみたいなパンツで動物の顔が前に…」
そういって手ぶりで形をヒカルに示そうとしかけてアキラはハッとなった。
「…ボクのことはどうでもいいから。その手紙、もう何度も来たのか?」
「これで3通目。今まで1枚づつ、やっぱり同じ人形で…。」
そう説明していてヒカルは顔色を変えた。
(9)
人形の服そうや、直接自宅や棋院会館に手紙を置きに来た事から、この相手は常に
自分の傍にいて自分を見ている可能性があると思ったからだ。
今アキラとこうしてここにいる瞬間も―。
ヒカルは思わず息を潜め、神経を張り巡らせてそおっと公園を見回した。
「進藤?」
アキラもすぐにハッとなり、同様に周囲に怪しげな人影がないか探した。
遠くの方で犬の散歩で横切る人以外はとくに気配はしなかった。
それでも何か、何かがヒカルの皮膚に纏わりついて離れない、そんな息苦しさがあった。
「しばらくは、夜遅くとか一人で出歩かない方がいいかも…。」
神妙なアキラの言葉と表情にヒカルが動揺した顔を見せる。
「うええ…っ」
「戸締まりとか、気をつけた方が良い。2階だからって安心しないで、カーテンも
ちゃんと閉めて着替えるんだよ。隙を作っちゃダメなんだ。」
「う、うん…」
アキラの忠告にヒカルは泣きそうな顔で頷く。一度あかりが学校帰りに知らない男に後を
つけられて怖くて泣きそうになったという話を聞いた事があり、女の子って大変だなと
思ったが正直どこか他人事でピンと来なかった。初めてあかりが感じた「怖さ」を実感した。
そんなヒカルを元気付けようとするようにアキラがヒカルの手を強く握りしめた。
「大丈夫だよ。よほどの事がない限り、こういう連中は直接は手を出して来ないから。
あまり気にしない方がいい。また何かあったら直ぐボクに相談してよ。」
「うん、…ありがとうな、塔矢。」
(10)
それでもまだかなり不安げな顔色を隠せないでいるヒカルにアキラが尋ねた。
「まだ、何か他にもあるのかい?進藤。」
「…変な夢を見たんだ…。」
「夢?どんな?」
話そうとして、ヒカルはカーッと赤くなった。アキラに説明するのがはばかられた。
アキラも無理に聞き出そうとはしなかった。
「不安な気持ちから変な夢を見る事があるよ。ボクが家まで送ろう。」
「あ、いいよ。まだ明るいし。大丈夫。それじゃあ、ありがとう、塔矢。」
明るく笑顔を見せて手を振り、ヒカルは駆け出して行った。だがアキラにはヒカルがかなり
不安を抱えている事を感じ取り、心配げにヒカルの背中を見送った。
その夜はヒカルは母親に小言を言われるのを承知で風呂に入らなかった。
窓の向こうの闇の中に誰かがいるような気がしたからだ。朝出かける前にシャワーを浴びればいい。
少し頭痛がした。それでも目を閉じて暫くしたら眠りに入る事が出来た。
アキラに相談した事で多少気が楽になっていた。そう思っていた。
やはり違和感を感じて目を開けた。そして、何も見えない事にヒカルは動揺した。
手足が動かない。―まただ…!。
そして既に自分は何も身につけていない全裸であった。
「熱くないようにしておいたからね。」
同じ男の声がして、首の後ろから背中にかけて例の大きな手のひらが差し込まれて抱き上げられる。
温かな湯気を感じた。
「うわ…!」
ヒカルの体は足先からお湯の中に沈められていった。
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