平安幻想秘聞録・第一章 6 - 10
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夜も更けて、明が帰った後も、佐為はヒカルのところに留まり、尽き
ることのない話を交わしていた。ヒカルにはこの時代がもの珍しく、逆
に佐為にとってはヒカルの話す、未来の世でのコミのルールや対局時計
などの囲碁に関わることに始まり、パソコンというからくりの箱の話に
至っては、もう不思議としか言いようのないものばかりだった。
「それにしても、私は光がこれほど見目麗しい若者になるとは思っても
いませんでした」
ふと話が途切れとき、佐為は改めてヒカルの姿を見つめながら、そう
言った。
「見目麗しいって、えーと、綺麗ってことか?」
「えぇ」
「それで、何が?」
「光が、ですよ」
扇子で口許を隠しながら、佐為がふふふと悪戯っぽく笑う。
「えっ、オレ?」
「えぇ。私が知ってる光は、もう元服を過ぎた年だというのに、まだあ
どけないというのか、元気いっぱいの子供のような少年でしたから」
二年前といえば、ヒカルが佐為と別れる少し前だ。振り返ってみて、
確かにあの頃の自分は、すごく子供だった。佐為の不安も分かってやれ
ないほどの。検非違使という仕事に誇りを持って毎日鍛錬に励んでいた
という近衛光の方が、内面的には自分よりよっぽど大人かも知れない。
「それが、今の光は匂い立つような色香があって、まるで絵巻物に出て
来る高貴な若君のようですよ」
もっとも光は昔から可愛かったですけどね。そう付け加える。
「あなたの、その目立つ金の前髪がなかったら、一瞬、別人かと見紛っ
たかも知れません」
「やめてくれよー。綺麗っていうのは、佐為のようなヤツを言うんだろ」
身近にいるときは意識したこともなかったが、佐為は花のように綺麗
だったと、その面影を思い浮かべる度に思ったものだ。初めは大切な思
い出だから美化されているのでないかとも感じたが、こうして目の前に
してみると、やっぱり佐為は綺麗だと思う。
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それに、近衛光には申し訳ないが、こうやってもう一度佐為と話せて、
しかも触れることができるのが嬉しくて堪らない。この佐為はヒカルの
知ってる囲碁幽霊になってからの佐為ではないと分かっていても、やっ
ぱり嬉しいものは嬉しい。
「ですが、本当ですよ。きっと光も、今頃はあなたのように麗しい青年
に育ってることでしょうね」
光とヒカル。微妙なニュアンスの違いに、ヒカルは目を伏せた。
「ごめん、な」
ぽつりとヒカルの口から零れた謝罪に、慌てて佐為がいつものように
微笑みを見せる。
「何も、光が謝ることなんてありませんよ。こうやってあなたと出会え
たのも、きっと神さまの思し召しでしょうから」
「そう、なのかな」
「えぇ」
頷く佐為にヒカルも少しだけ表情を戻す。
「そういや、近衛は川で行方不明になったんだよな。溺れたってことは
近衛は泳げなかったのか?」
「いえ、光は泳ぎは達者な方でしたよ。ただ、あの日は酷い嵐で川が増
水して、流れも速かったのです」
秋口のことだと聞いて、あぁ、台風だなとヒカルは頷いた。
「足でも滑らせたのか?まさか、突き落とされたわけじゃないだろ?」
「違いますよ。川に落ちた幼女を助けようとして飛び込んだのです」
雨と風のせいでなかなか川岸に辿り着けず、光は泳げない幼女を抱え
てかなり体力を消耗した。やっと川辺にいる仲間の検非違使に彼女を手
渡した後、力尽きるようにそのまま川下へと流されてしまった・・・。
「でも、でも!死体は見つかってないんだろ!?オレを近衛と間違ったく
らいなんだからさ」
「えぇ。ずいぶんと川を下ったところまで探したのですけれど、光は見
つかりませんでした」
貴人や要人というわけではない光の捜索は、それでも、検非違使仲間
や佐為、明によってかなり長い間行われた。
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「だったらさ、きっと、生きてるよ。近衛光もさ」
佐為のためにも生きていて欲しい。ヒカルはそう願わずにいられない。
大事な人を失って泣くのは辛いことだと、知っているから。
「もうちょっと、もうちょっとだけ、ここにいてくれないかな」
電気のないこの時代にはもう充分真夜中と言っていい時間だったが、
そのまま佐為と別れたくなかった。またうとうとして目を覚ましたとき
にそこに佐為の姿がなかったら。そう思うと、果てしないほどに怖い。
「いいですよ。それなら、今夜は私もここで寝ることにしましょう」
「ほんと?」
「えぇ、光と共寝もいいかも知れません(笑)」
佐為はもちろん冗談で艶っぽい意味を含ませているだが、ヒカルには
そこまでは分からない。そういえば、佐為ってオレが寝てる間ってどう
してたのかな。学校で居眠りしてたときは、佐為も寝てたけどさ。など
と呑気なことを考えていた。
しんと、虫の音さえ眠ってしまったような痛いくらいの静けさの中、
ヒカルはなかなか落ちてこない瞼を無理矢理合わせた。厚畳の寝具の寝
心地は悪くなかったが、硬い枕が頭に合わないのか、それとも三日も床
に伏せたままだったせいで単に寝足りてしまっているのか、なかなか眠
くならない。抱きかかえこともできない枕の上で右を見たり左を見たり、
それでもやけにはっきりして来る意識に、ヒカルは諦め目を開いた。
薄ぼんやりとした部屋。暗さに馴れて来ると、隣で眠ってる佐為の姿
がはっきりと見える。
やっぱ、変な感じだよなー。オレが起きてんのに佐為が寝てるなんて。
おまけに烏帽子を被ってない佐為を見るのも初めてだ。この時代では
就寝や禊ぎ以外で烏帽子や冠を外すことは滅多になく、頭を見せるのは
裸も同然らしい。
佐為・・・。
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目を閉じた佐為も変わらず綺麗だ。切れ長の目は見えないけれど、形
のいい鼻、唇。顎のライン。じっと見つめてるうちに、下腹部の辺りが
急に熱くなり、ヒカルは咄嗟にぎゅっと身体を丸めて縮こまった。
何だ、これ。胸が、すげー、どきどきする。何だよ、これ!
ヒカルくらいの年頃なら、雑誌やビデオで艶めかしい女性の身体を見
たときに、こういう反応が現れるのは当たり前のことだ。だが、思春期
の一番多感な時期に、ヒカルは佐為と意識を共有していた。そのせいか
性的な衝動を無意識のうちにセーブする癖がついているらしく、あぁ、
オレって淡泊なんだなという自覚もしていた。
なら、今、佐為に感じてるものは何だろう。胸の奥が熱くて痛くて、
押さえようとすればするほど苦しくて、声を漏らさないよう指の関節を
噛むようにして、低く呻く。身体の内側で血が沸騰しているみたいだ。
佐為、佐為、助けて・・・!
「うっ、う・・・」
啜り泣いてるような声に呼び覚まされて、佐為は隣で眠ってるはずの
ヒカルの姿を探した。寝具代わりの狩衣が小刻みに揺れ、ヒカルの身体
が震えているのが分かる。
「どうしたんです、光。どこか痛いんですか?」
「ちが・・・う、さ・・・い」
目元を紅く染め、涙を滲ませたヒカルの妖艶さに佐為はハッとしなが
らも、乱れた髪を額から払ってやりながら、ヒカルに顔を近づけた。
「でも、顔が赤いですよ。熱でも出たのでは?」
ヒカルにせがまれたとはいえ、やはり夕餉の前の対局で無理をし過ぎ
たのかも知れない。熱を計ろうと、額に当てた手をぎゅっと握られる。
縋るような仕種に、ヒカルの身体をそっと抱き起こして、自分の胸に凭
れかけされた。
「佐為ぃ・・・」
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「光?」
密着するまでに触れて、初めて分かったヒカルの状態。
「これは・・・」
光が欲情している?でも、いったい何に?
「光、やはり私は向こうで寝ることにしましょうか?」
「やだ!何で置いてっちゃうんだよ!?」
離れようとした佐為に、ヒカルはなおさら小袖の合わせの辺りを握り
締め、身体を寄せて来る。佐為としては、ヒカルが猛りきった己の欲望
を処理するためには、自分はここにはいない方がいいと思っただけなの
だが。熱い身体を持て余してがたがたと震えているのに、表情はまるで
幼い子供のようなヒカル・・・。
もしかして、光は自分がどうなってるのか分かっていないのでは?
「ねぇ、光。寝ていて、急に具合が悪くなったのですか?」
「分かんねぇ、よ。佐為のこと見てたら、急に、身体が熱くなって来て」
佐為のことを考えてただけなのに・・・それとも、佐為のことを考え
てたから、こうなったのか?そう自覚した途端、ヒカルはやっと自分の
下肢が示してる意味が分かった。
オレ、欲情してるんだ、佐為に・・・。
「佐為、ごめん、やっぱ、離れて」
「光、でも、苦しいのでしょう?」
「だって、オレ、変だ」
変だ。こんなの。オレは男なのに、同じ男の佐為にこんなふうに思う
なんて。ずっと一緒にいたとき、触れられなかったせいもあるが、佐為
に対して欲望を抱いたことなどなかった。言葉も交わさないまま別れて
からも、何度も佐為を思い出した。けれど、初めは悲しく苦しいだけの
想いが、今では逆に優しく穏やかに変わっていた。決してこんなふうに
佐為に劣情を感じたことなんてない。
「光、大丈夫です。私がいますから」
「佐為?」
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