平安幻想秘聞録・第二章 6 - 10
(6)
「はい。あの、進藤でいいです。呼び捨てで」
緒方先生にくん付けで呼ばれるなんて、何だか気味が悪い。当の緒方
が聞いたら立腹しそうなことを考えつつ、ヒカルも勧められて腰を下ろ
した。
「藤原行洋さまはおいでではないのですか?」
「それが、帝のお相手で、なかなか宴の席をお外しになれなくてな」
「帝の、ですか?」
「あぁ、おまけに、さりげなく席を外そうとした行洋さまの様子に、帝
がお気づきになって。仕方なく、佐為殿とお会いになることをお話しな
られてな・・・」
意味ありげな緒方の視線に、佐為はふぅと息をついた。
「皆まで言わなくても分かりました。帝にご挨拶をしに伺います」
「そういうことだ」
いくら私用での参内とはいえ、宮中にいることが知られた上は、帝に
何の挨拶もなしに帰るわけにもいかない。
「光。申し訳ありませんが、こちらで待っていてくれますか?」
「えっ、オレ、一人で?」
「そうだな。宴の席に連れて行くわけにもいかないからな」
「宴はどちらで?」
「綾綺殿だ」
何とか殿と言われても、ヒカルにはどこがどこなのだか分からない。
下手に歩き回ると、百発百中の確率で迷子になりそうだ。
「すぐに戻りますから」
そう言って緒方と立ち並んで出て行った佐為の言葉を信じるしかない。
「もし、誰か来たら、畳に平伏していれば大丈夫なんて、佐為も簡単に
言ってくれるよなぁ」
真夜中でも煌々と灯りが部屋の中を照らす現代と違って、油を差した
燈台に灯る光は小さなものだ。確かに、下を向いてしまえば、人相風体
ははっきりと分からないかも知れないが。
(7)
それにしても、退屈だ。すぐというのも、どこかのんびりとした平安
時代とせかせかした現代では違うのかも知れない。少なくとも半時が過
ぎても佐為たちは戻って来る気配さえない。
「せめて碁盤と碁石があればなぁ、何時間だって時間を潰せるのに」
頭の中で棋譜を浮かべるのもいいが、やはり碁石を持つ方がいい。
そのとき、すっと佐為たちが出て行ったのとは違う襖が開き、ヒカル
は思わずびくりと身体を竦ませた。
「あぁ、すまぬな。人がいるとは思わなかった」
声の主はまだ、年の若い男だった。声の調子にどこか雅やかな響きが
ある。きっと身分の高い貴族だ。そう思って、ヒカルは佐為に言い含め
られていた通りに、ぺたんと頭を下げた。
「そう畏まらなくても良い。闖入者は私の方だ」
「いえ、身分の高い方に失礼があっては、オレ、いえ、私が主人に叱ら
れます」
若干棒読みの答えだったが、相手はヒカルが緊張してるのだと取って
くれたらしい。
「そうか。そなたはどなたかのお供で参ったのか?」
「あっ、はい」
「主は・・・いや、訊くのは野暮というものだな。今宵は宴なのだしな。
私も少し飲み過ぎたようだ。悪いがここで酔い醒まさせてもらうぞ」
うわぁ、早く出て行ってくれないかなーと思いながらも、ヒカルは下
げた頭で更に下にして頷くしかない。
「そなたのそのままでは辛かろう。私はそちらを向かぬようにするゆえ、
楽にしていてよいぞ」
「あっ、でも、いえ、ですが・・・」
「かまわぬ、かまわぬ」
やっぱり酔っているのか、男はどこか陽気だ。そっと視線だけを上げ、
相手がこちらを見てないのを確認して、ヒカルは身体を起こした。
(8)
まるっきり背中を向けるのも何なので、身体を横にし、なるべく俯く
ようにして、ちらりと男の方を見る。ヒカルが面を上げても、約束通り
こちらを見ないようにしてくれているらしい。
扇子で自身を扇ぐ姿もどこか品がある。身分の高い者なら、検非違使
である近衛と顔見知りということもないだろう。ヒカルは少しほっとし
て肩の力を抜いた。もっとも、ヒカルに袍(うえのきぬ)の色彩につい
ての知識があれば、相手の身分はすぐに分かったのだが。
男は別段ヒカルを気にすることもなく、ほろ酔いの気分に浸っている
ようだ。が、ヒカルが小さく息を吐いた拍子に、男がついというふうに
こちらに目をやり、そのまま絶句したのが見てとれた。
うわぁ、やっぱり知り合いなのかよ。焦りまくるものの、動くことの
できないヒカルに、男が片膝を立てて、こちらに身を乗り出した。
「そなた・・・」
今の今まで、たおやかな雰囲気を纏っていたのが嘘のように、相手の
表情が変わっていた。例えは悪いが、幽霊か死人でも見たような驚き方
だった。いや、それにしては、男の顔は青ざめる代わりに、赤く上気し
ている。首を傾げるヒカルに、また一歩、詰め寄って来る。
「そなた、名は何と言う?主人は、どなただ?」
先程、訊くのは野暮と雅に言って退けたのが、当の本人とは思えない
ような台詞だった。
「オ、オレは・・・」
「さぁ、名を、名を教えておくれ」
いく分、優しげにかけられた問いに、ヒカルがどう答えようかと視線
を逸らしたとき、男の背後から声高に誰かを呼ぶ声が聞こえた。
「・・・さま!どちらにいっらゃいますか?」
(9)
はっとしたように、男がそちらを振り返る。廊下を踏みしめるいくつ
かの足音が、この部屋の辺りに向かっているようだ。相手が気を取られ
たのを見て、ヒカルは、咄嗟に後ろの障子を開け、反対側の廊下へと飛
び出した。
「待たれよ!」
追い縋ろうとする男の声に、またいくつかの声が重なる。
「今、こちらの方で、お声が!」
「早く、早く、お迎えに上がるのだ」
そんな声を背に、ヒカルは振り返らずに走り続けた。どこをどう走っ
たのか、気がつけば、庭に面した廊下へと出てしまった。が、運のいい
ことに、そこは、ヒカルたちが履き物を脱いだ場所で、先刻、ここまで
案内をしてくれた衛士が、そこに座り番をしていた。
「あの・・・」
「何か?あぁ、お前は先程の」
被り物でヒカルの顔は見ていないはずだが、衣や袴の色や文様を覚え
ていたのだろう。衛士が灯りを持ってこちらに近づいて来る。
「どうされた?」
「えーと、その、迷っちまって・・・」
一瞬、衛士の目が呆れたように大きく見開かれたが、こんな広い屋敷
では珍しくもないのか、微かに口元に笑みを浮かべて、頷いた。
「緒方さまたちと、はぐれられたのか?」
「う、うん」
「それは心細いだろうな。部屋までお連れしようか?」
「それが、さっきの部屋で、知らない人に見つかっちゃって・・・」
「分かった。緒方さまに連絡をつけて来るから、こちらで待たれよ」
「うん、ありがとう」
照れ臭そうに微笑んだヒカルに、衛士が目を細める。何とか迷子を免
れてほっとしたヒカルは、相手が自分に見惚れているとは、まったく気
がついていなかった。
(10)
「昨夜、さる高貴なお方が、見目麗しい幻の君に心を奪われたと、内裏
でたいそう評判になっているそうですよ」
そう話を佐為に切り出したのは、朝餉が終わる頃を見計らったように
やって来た明だった。
「ほう、幻ですか?」
「何だよ、幽霊でも出たのか?」
扇子を片手に優雅に返した佐為の横で、多少、いやかなり疲れ気味の
ヒカルが口を挟む。昨夜は、衛士が戻って来るまでの小一時間、ずっと
濡れ縁の下に隠れていた上、結局、藤原行洋には会えず終いだったのだ。
骨折り損のくたびれもうけ、ということわざが思わず浮かんでしまった
くらいの疲労感だった。あんなに肝を冷やしたのも久しぶりなのに。
「人事じゃないんだよ、進藤」
「えっ、何でだよ?」
不思議そうに明を見るヒカルを押しとどめて、佐為が代わりに訊いた。
「明殿、そのさる高貴な方というのは、どなたですか?」
僕が隠しておいても、いずれお耳に入るでしょうからと前置きをして、
明はすっと背筋を伸ばし、その名を告げた。
「春の君です」
「春の・・・そうですか、それで、都一の陰陽師である明殿にお呼びが
かかったのですね」
「えぇ」
「誰だよ、春の君って?オレにも分かるように説明してよ」
一人、除け者にされたようで、ヒカルは気分が悪い。
「それより、光。昨夜、内裏で会ったお方のことを、もう少し詳しく訊
いてもいいですか?」
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