平安幻想秘聞録・第三章 6 - 10
(6)
「可相想ですが、暇をやることにしました」
これが弱みを握られて脅かされていたというのならともかく、袖の下
を掴まされ、主人を裏切る行為を働くのは、お館勤めをする女房なら決
してやってはいけないことだ。万が一、門番が役に立たないのを見て、
夜盗にでも押し込まれてでもいたら、どうなったことだろう。佐為は次
の勤め先への紹介状を書くつもりもなく、ツテもない彼女が別の屋敷に
召し抱えられる可能性は、限りなくゼロに近い。
「ここまで厳しく罰することもないのかも知れませんが」
珍しく佐為は本気で怒っているようだ。東宮が自分の屋敷の者を使い、
ヒカルに不埒な真似をしようとしたことが、余程腹に据えかねているら
しい。
「春の君が、こんなに光に執着してるとは思いもしませんでした。昨夜
の失態に懲りて、諦めてくれると良いのですが」
「そうだな。あれじゃオレもおちおち熟睡してられないもんな」
「えぇ。早急に藤原行洋さまに会見をお願いしようと思っています」
「でも、忙しいんだろ?」
「お忙しいのは分かっていますが、光の貞操の危機には変えられません」
貞操って何だ?とぽけっと見返したヒカルに、佐為が思わず苦笑した。
見かけは見目麗しき公達だというのに、こういうことに関してはヒカル
はひどく疎く、幼いとさえ言える。だからこそ、つい保護欲が刺激され
て放っておけないのだ。
「朝餉が終えたら、行洋さまからの返事を待つ間に一局打ちましょう」
にっこりと微笑む佐為に、ヒカルもつられて笑顔になる。佐為はやっ
ぱり碁を打てるときが一番楽しそうだな。
が、その日のうちに行洋からの返事はなく、一夜明けてもたらされた
知らせに、佐為とヒカル、そして数日ぶりに屋敷を訪れていた明は愕然
となった。
(7)
「えー、嘘だろ!?」
「嘘だと、私も思いたいのですが」
「・・・はぁ(ため息)」
行洋からの使者と文は、三者三様の反応をもたらしていた。
「賀茂!お前も嘘だって思うだろ?」
「だが、わざわざ藤原行洋さまが偽りの文を寄こすとも思えない」
「でもさぁ」
ヒカルがあまり大声で嘘と連呼するものだから、行洋からの文を携え
て来た従者(ずさ)の頬がピクピクと引きつっている。だが、今はそん
なことを気にしている場合ではなかった。
達筆過ぎてヒカルには読めない文には、近衛光の生還をお聞きになり、
帝がすぐに参内するようにと仰せられている。しからば、とりもとりあ
えず早急に参上されたしと書かれているらしい。
「近衛って、帝と会えるような身分じゃないんだろ?」
「それは、光が京の妖しを倒すのに一役買った、功労者だからですよ」
「京の妖しって、佐為と賀茂と一緒にやっつけたっていう、桑原のじー
ちゃんそっくりな妖怪のことだよな?」
「えぇ」
平成の世での、いや、桑原本因坊は昭和生まれだから、昭和の世なの
かはともかく、どこか得体の知れないところのあるかの老人が、妖怪だ
と聞かされてもヒカルは驚かなかった。千年も昔の幽霊であった佐為を
ありのままに受け入れていただけはある。
「どうしても行かなきゃダメなのか?」
「そうですね。この文によると、光のことを耳にして、当初、帝はたい
そうご立腹だったそうですから」
(8)
「な、何で?」
「無事なら無事で、正式に挨拶に来るのが筋と言うものだろうと」
藤原行洋が、近衛光はまだ病み上がりの身、窶れて見苦しいところを
帝にお見せするのは申し訳ないと申しておりました。そう取りなしたお
陰で、帝も一度は納得したらしいが。
「春の君が、ならば光を参内させて、帝がお声をおかけになれば、闘病
の励みとなりましょうと、おっしゃったそうですよ」
もちろん、身分の低い検非違使をわざわざ帝が御前に召すことはない。
囲碁指南のために参内する佐為の護衛としてヒカルも付き添い、あくま
で偶然に帝と出くわすという段取りになっているらしい。そして、その
場に東宮も、これまた、たまたま居合わすことになるのだ。
「うわー、姑息だな、東宮」
歯に衣着せぬ物言いで腕組みをするヒカルに、佐為と明は思わず顔を
見合わせた。
「とりあえず、行くしかないか」
「そうですね」
「俺の顔を改めて見れば、東宮も目が覚めるだろうしさ」
何しろ、御所でもここでも、明るいところで顔を合わせたことはない
のだ。ヒカルの方は、まだまともに東宮の顔さえ見ていない。
「・・・だといいんだが」
自分の容姿の美醜に頓着しないヒカルを、明は心配になる。例えば、
市中をどんなに目立たぬ服装で歩いたとしても、人目を引かずにはおか
ないほどに見目麗しい容貌なのだ、ヒカルは。もっとも、当の明も他人
のことを言えないところがあるのだが。
「文には早急にとありましたね?具体的にはいつです?」
(9)
「できれば明日にでもと」
「佐為は大丈夫なのか?」
「こんなときですから、何より光を優先しますよ」
「分かった。いいよ。嫌なことを後回しにしても仕方ないもんな」
きっぱり言い切ったヒカルに、佐為も覚悟を決めて頷いた。こうして
佐為が行洋に文を返し、ヒカルは明日の早い時間に近衛光として御所へ
と参内することとなった。
「はぁ、あぁん・・・」
気持ちが高ぶって眠れないまま、ヒカルは佐為の部屋へと赴き、褥を
共にした。時の最高権力者と顔を合わせることへの緊張。自分に懸想し
ているらしい東宮の思惑もまだ分からない。自分に味方してくれている
佐為や明、それに行洋に対する申し訳ないという気持ち。そして、近衛
と顔見知りの者に会ってしまうのではないかという不安。それがない交
ぜになって、ヒカルに襲いかかって来ていた。
それを、一瞬でもいいから忘れたかった。ただ、疲れて泥のように眠
れるように、抱いて欲しい。
「光、光・・・」
不安は、佐為にとっても同じであった。二年前に、光を失ったように、
この腕の中の少年もなくしてしまうのではないかと、正気でいては考え
なくても良いことに思いを巡らせてしまう。
二人の気持ちを表すように、その夜の情交は、いつもより深く激しい
ものになった・・・。
(10)
翌日。ヒカルと佐為は早朝に人目を憚るように参内し、帝との約束の
刻まで、気を落ち着けるように碁盤を挟んで対峙していた。対局に夢中
になっている間、ヒカルの集中力は半端ではなくなる。佐為もまた静か
碁石を置き、ヒカルの手に応えるだけで、言葉はなかった。囲碁は手談、
行き交う碁石の筋だけで、二人の想いは通じ合っていたのかも知れない。
二人は、そろそろお時間ですと、行洋が寄こした従者(ずさ)が呼び
に来るまで、ただひたすらに打ち続けていた。
「行こう、佐為」
「はい」
ヒカルたちが向かった先は、帝が日常生活を送る清涼殿から内宴など
が行われる承香殿へと続く渡殿(わたどの)の途中だった。後宮七殿の
一つ、弘徽殿の女御の指導碁の帰りに、帝と偶然出くわす手はずになっ
ており、尊い身分の殿上人が住まう場所だけに、衛士は多いが、関係の
ない貴族たちを閉め出すことができる利点もあった。
ヒカルは無言で佐為の後ろをついて歩く。廊下の先にたくさんの付き
人を従えた帝らしい人の姿を見て、ヒカルは速くなる鼓動を押さえよう
と深呼吸をした。そして、佐為に倣って廊下の端へと座し頭を低くする。
「これは佐為殿、弘徽殿の指導碁のお帰りか?」
「はい。弘徽殿の女御さまは、とても熱心でいらっしゃいますから」
恭しく帝に礼をした後、佐為が打ち合わせ通りに返す。
「うむ。これからもよろしく頼むぞ」
「はい」
「ときに・・・」
見えないまでも帝の視軸がこちらに向いた気配を感じて、ヒカルは床
についた手にぐっと力を込めた。
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