ヒガンバナ 6 - 10


(6)
(振り返っちゃダメだ。)
 瞬間的にそう思った。振り返ったら何もかもが、終わる気がして。
「ヒカル?」
(振り返っちゃダメだ。)
「ヒカル、」
(振り返っちゃ……)

 とても久しぶりに聞く佐為の声は、やっぱり優しかった。胸の芯からさざ波立つように、熱い何かが全身に広がってゆく。
 佐為。
 佐為。
「佐為っ…」

 振り返ると、佐為は階段の下で穏やかに微笑んでいた。その白い手には、落ちたときに付いたと思われる灰色のホコリで薄化粧したおはぎが握られている。
「上手に作ることができたんですね。食べてもいいですか?」
「えっ……、あっダメダメ!!蔵の床に落ちたやつだから汚いよ!」
 焦るオレの言葉には少しも耳を傾けず、佐為はオレの作ったおはぎを口にした。
 ゆっくり咀嚼して、にっこりと微笑む。
「おいしいですよ、ヒカル。」

 その言葉を聞いたとき、オレは堪えきれなくなって涙をこぼしていた。


(7)
 オレはみっともなく声を上げて泣いていた。涙も拭わず、溢れるままに。視界が歪んで前が見えない。佐為が見えない。
 ぎしぎしと音がして、階段を上った佐為がオレの濡れた頬に触れた。
「ヒカル、泣かないで…。」
 佐為がオレに“触れている”
 オレは混乱して、ますます涙が出てきてしまった。
「さい‥佐為ぃっ……」
 それしか言葉を知らないように、オレは佐為の名だけを呼び続けた。オレの頭を撫でる佐為の手が温かい。佐為は柔らかくオレを抱きしめて、小さな子をあやすように何度も背中をさすってくれた。
「ヒカルは泣き虫さんですね…。」
 笑みを含んだ佐為の声が、耳元で響いてくすぐったい。オレは佐為の瞳を見上げた。佐為の瞳にオレの顔が映ってる。きっとオレの瞳にも佐為が映っているんだろう。
 佐為の瞳の中のオレが、段々大きくなっていったと思ったら、オレたちはキスをしていた。頬に、額に、そしてまた唇に、佐為のキスが降りてくる。オレはじっと目を瞑って、それを受け入れていた。
「少し…背が伸びましたね…。」
「そりゃ、一年も経てば身長だって伸びるさ。」
 やっとまともに喋れるようになったと思ったら、責めてるみたいな口調になってしまったオレに、佐為は小さく声を立てて笑った。
「佐為…また出てきてくれたってことは、もう一度前みたいに一緒にいられるの?」
 オレの問いかけに佐為の笑顔がフッと消えて、それを見たオレは期待があっさり打ち破られたことを知った。
「………それは無理です。これで本当に最後ですよ…神様が私のわがままを聞いて下さるのは。」
 急に蔵の空気が冷たく感じられる。オレはその場に崩れ落ちてしまいそうになって、佐為にしがみつく手に力を込めた。
「……さい…」

 行かないで、とか
 寂しいよ、とか
 そんな言葉は言えるはずもなかった。
 ただただ苦しくて、オレはうわごとのように佐為の名を繰り返した。


(8)
「ヒカル、ごめんなさい…。どうか泣かないで…」
 そう言う佐為もまた、泣きそうな表情をしていた。
 ────ずっと、そうだった。
 オレが悲しいときは、佐為も悲しい顔をしていた。オレが笑えば、佐為も笑った。嬉しいことも悲しいこともむかつくことも、みんなみんな一緒だったんだ。
 優しい佐為。キレイな佐為。オレは佐為が、佐為のことが────
「‥すき……」
 ずっと後悔していた。
 オレは佐為に一番伝えたかったことを、今まで一度も言ったことがなかった。
「オレ…佐為がすきだよ……」
 佐為は少し驚いたように目を見開き、次にオレの心を捕らえて放さないあの笑顔になった。
「私もヒカルのことが大好きですよ。」
 オレは背伸びをして、佐為は屈んで、そして唇を触れ合わせる。
 ずっと前、佐為に古典の宿題を手伝ってもらったときに、「愛しい」は「かなしい」と読むのだということを覚えた。
 ああ、本当だ。今オレの心の中には、佐為への愛しさと悲しさが共存している。佐為のことが好きで好きでたまらないのに、そのせいで体がちぎれそうなほど辛い。離れなきゃいけないのがわかっているから。

 口づけを交わしながら、オレと佐為はもつれ合うように蔵の床に倒れ込んだ。
 佐為に抱かれたら、佐為のぬくもりを知ってしまったら、もう一度独りになったとき、そのあまりの肌寒さにきっとオレは泣くのだろう。
 それでもオレは堪えきれずに、佐為の体温に手を伸ばしていた。


(9)
 佐為と唇を重ねると、甘い味と香りがした。
「さい…あんこ付いてる。」
 こどもみたいだ。
 笑いながら佐為の唇の端のあんこを舐め取ると、佐為はオレをぎゅうっと抱きしめた。
「これを私たちの三日夜餅にしましょう。」
「ミカヨモチ…?」
 問いかけるように見上げると、佐為は意味ありげに笑った。
「平安の時代は、3日かけて結婚式が行われていました。3日目の夜に新郎の親から祝いの餅である三日夜餅を送ってもらって、やっと夫婦として認められたのですよ。」
「それって…」
 それって、つまり…。
 自分の顔に血液が大集合していくのがわかる。嬉しくて、嬉しすぎて、なんだか恥ずかしかった。だけど流れた涙は、嬉しさのせいだけではなかった。
「ヒカル?」
 どんどんと胸を叩かれているように、心臓が苦しかった。
「…んなの…、そんなのだめだよ……」
 夫婦っていっつも一緒にいるって約束だろ?
 でも佐為、すぐ破っちゃうんじゃないか。
「いらない…」
 佐為が心配そうにオレの顔を覗き込む。
「そんな悲しい約束、しなくていい…。」
「ヒカル…」
 一緒にいたい。一緒にいたいけど、佐為。オマエを困らせるワガママは、もう言いたくない。
 それなのになんでかな。お腹が空いて仕方ないんだ。心と体の中が空っぽなんだ。そこには小さな風穴が開いていて、冷たい風が吹くたびに、ひゅうひゅうと泣いているような音をたてるんだよ。

 佐為、一度だけ。
 一度だけでいい。

 その空洞を、溢れるほどに満たしてください。
 佐為の愛を食べなきゃ、お腹いっぱいにならない。

 風が音をたて続けるのには、耐えられないんだ。


(10)
 冷たく硬い床にオレが震えると、佐為は狩衣を脱いでオレの身体の下に敷いた。
 単と指貫だけの佐為を見るのは初めてで、オレはじっと見入ってしまった。
「私はヒカルを泣かせてばかりですね。」
 前髪を梳かれる感触が気持ちよくて、ゆっくりまばたきをする。
「なに言ってるんだよ…。」
「嫌になったらすぐ言って下さい。やめますから。」
 脇腹を撫でる佐為の手がくすぐったかった。
「やめないで…」
 烏帽子を取った佐為の顔も、初めて見る。白くてさらさらの、新雪のような佐為の肌。
 服がするすると脱がされていったけれど、もう寒さは感じなかった。風邪をひいたときのように、頭がじんじんして頬は熱く、ぼおっとなった。
「さい…。」
 佐為の首にぎゅっと抱きつく。艶やかな髪が腕に当たって、その冷たさが気持ちよかった。
 優しく両頬に手を添えられて、触れるだけのキスをする。もっとオトナのキスがしたくて、オレは誘うように薄く口を開けた。
 平安時代では、キスの事を「口吸う」って言ったらしい。なんか「キス」よりも恥ずかしいよな、それ。
 でも今のオレなら何となくわかるかもしれない。触れるだけのキスじゃ物足りないってこと。
 佐為の舌が入ってくる。熱くて柔らかくて、オレの口の中が溶けそうだ。呼吸がうまくできなくて少し苦しいけど、もうなんかそれさえも気持ちいい。オレ、相当やばいかもしんない。
 ぴちゃぴちゃと、湿った音だけが響く。口って、喋ったりもの食ったりするためだけにあるんじゃないんだな。

 蔵の天井の隅に、蜘蛛の巣が見えた。どこからか光が差していて、きらきらと輝いている。
 こんなきったねぇ蔵ン中でさ、ムードも何もあったもんじゃねぇはずなのに。

 佐為がいれば

 佐為さえいれば


 世界でいちばんキレイな場所に見えるよ。



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