sai包囲網・中一の夏編 6 - 10


(6)
 ふいに、教室の窓越しに拒絶されたときのことを思い出した。閉ざさ
れた窓とカーテン。こんな風に彼を追いつめるようなマネをしてしまう
のは、あのときの仕返しなんだろうか。
 イヤ、それよりも、ボクは彼の、進藤のことをもっと知りたい。最初
の圧倒的な強さと、その後の落胆したほどの棋力とのギャップ。謎めい
た進藤のすべてを。
 そのためには、どうすればいいか。答えは簡単だった。
「進藤」
「な、なんだよ」
「黒、初手、右上スミ小目。白、左上星。黒、右下星…」
 進んで行く手順に、呆気に取られていた段々と進藤の表情が変わる。
そうだよ、これはキミが一時間ほど前に打った一局の棋譜だ。最後まで
読み上げ、ボクは視線を進藤の戻した。
「次のも言おうか?今度はキミが白番だったね」
「も、もう言わなくていい!」
 ボクに見られていたとやっと気がついた進藤が、小さく項垂れて自分
の足先に視線を落とした。さすがに、真っ正面からボクと向き合う気力
がないらしい。
「そんで、お前は何を言いたいわけ?」
「あれがキミの本当の実力?」
「本当って…オレの実力ならお前が一番良く知ってるだろ。ふざけるな!
って、対局中にどなりやがったくせに」
 拗ねたような口調と共に、ふっくらとした頬が動く。
「じゃあ、saiは?」
「あれは、その…おまえと対戦してたら、オレも実力をつけたってこと
だよ!オレだって、毎日、練習してるんだからな。強くだってなるさ」
「saiのレベルは、そんなもんじゃない」


(7)
「レベルって何だよ。オレが強くなっちゃ、悪いのかよ!」
「たった二ヶ月で、韓国のプロや多くの国のアマ代表を破るほどに?」
「プロ?アマ代表って?」
「先週、ボクは国際アマチュア囲碁カップの会場にいたんだ」
「アマの、国際、何だって?」
「各国のアマの代表が戦う国際試合だよ。キミと、saiと打った棋士
が集まって、saiは誰かとさわぎになっているところにタイミング良
く、キミが対戦を申し込んで来た」
 後は言わなくても分かるだろうと、言葉を切る。
 長考に入った進藤はすぐには答えを返さない。考え事をするときの彼
のクセなのか、何かを問いたそうに頭上を見上げ、微かに表情を変える。
それを何度か繰り返したあと、やっと口を開いた。
「オレが…」
 高めの声が少し掠れていた。その細い首の真ん中が、喉を潤わせるた
めに動く。
「オレがネット碁をやっちゃ悪いってこと、ないだろ」
「悪くないなら、どうして隠すの?」
「隠してなんか…」
「じゃあ、ボクがsaiの正体は進藤ヒカルだって、言ってもいいんだ」
「み、みんな、信じやしないさ」
「そうでもないよ。会場でもね、saiが夏休みになって現れたことや、
チャットでの会話から、子供じゃないかってウワサされていたしね」
「チャットって?」
「『ツヨイダロ、オレ』、覚えがあるだろう?」
 これが決定打だったらしく、進藤はかくんと肩を落とした。
「塔矢、どうしたら…saiのこと、黙っててくれるんだ?」
 ここで、やっと投了だね、進藤。


(8)
 どうすれば、ボクがsaiのことを黙っているか・・・。
 その言葉を進藤の口から聞けただけでも大収穫だが、ここで手を緩め
るつもりはない。掴んだと思った途端、指の間を擦り抜けるようにして
逃げてしまうキミだから。
「認めるんだね、キミがsaiだって」
「それは・・・」
 囲碁部の三将として戦ったときの進藤は、確かに話にならなかった。
その前の練達さを知っているだけに、一瞬、我が目を疑ったくらいだ。
だけど、ワザとヘタに打ったんじゃないと、あのときの進藤の表情が物
語っている。小さな唇を噛み締め、大きな目から溢れそうになる涙を耐
えた、心底悔しそうな顔。ふと、そのときの進藤を思い出して、ぞくり
とした。
 まだボクの知らない、キミの泣き顔を見てみたい。進藤、キミはボク
の中に今までなかった感情を見事なまでに引き出してくれる。キミと出
逢ってからというものの、自分が醜いまでに貪欲だという事実を突きつ
けられてばかりだ。
「あっちが本当の実力だと言い張るんなら、ボクは、もう二度とキミの
前には現れないよ」
「えっ」
 歩き出しかけたボクを、慌てて進藤が呼び止める。
「ま・・・待てよ、塔矢!」
 殊更、ゆっくりと振り返ると、ぐっと手を握り込み、せっぱ詰まった
ような表情の進藤がこちらに足を踏み出していた。
「さっきの話はどうなったんだよ!オレがsaiだって、言いふらすつ
もりなのか?」
 そう、進藤。ボクと会えなくなることより、そっちの方がキミにとっ
ては大事なんだね。


(9)
「もちろん、saiのことは話すよ」
「話すって、誰に?おまえの親父に?」
「さっき言っただろう?saiが誰か知りたがってる人がたくさんいる
んだって。あの日、彼との再戦が決まった後、詳しいことが分かったら
教えて欲しいと、口々に言われたからね」
「うっ・・・」
 せいぜいお父さんに話すくらいしか思っていなかったらしく、進藤が
言葉に詰まる。
「とりあえず緒方さんには話すつもりだよ。ずいぶんと気にしてたから」
「緒方・・・さん?」
「キミも一度逢ったことがあるはずだよ。ボクの兄弟子でね、キミがお
父さんと打ったとき、そばにいただろう」
「あっ、アイツ・・・」
 倍ほども年の違う緒方さんをアイツ呼ばわりするところも進藤らしい。
「今は、キミとsaiの関係は、ボクしか知らない」
 だけど、ここで別れた後はどうなるかは分からないと、水を向ける。
そのまま沈黙した進藤が、口を開くのを待つ。長くも短くもないその時
間は不思議と楽しかった。たぶん今の彼の頭の中は、ボクのことでいっ
ぱいのはずだ。
「ここじゃ、困る。話、長くなるし・・・」
「いいよ。場所を変えよう」
「おまえんとこの碁会所に行くのか?」
「いや。あのビルの最上階のフロアもお父さんが借りてる。普段は使っ
ていないから、ゆっくりと話せるよ」
 どうする?と目で問うと、進藤が小さく頷いた。一度、ネットカフェ
へと戻った彼を待って、再び歩き出したボクの後ろをただ黙ってついて
来る。
 以前は、ボクに手を引かれて来たけれど、今度はキミが自らの意志で
歩いて来るんだ。それを忘れちゃ、ダメだよ。


(10)
「碁会所に寄っていかなくていいのか?」
 囲碁サロンの階を素通りしたボクに、進藤が不安そうに声をかける。
「その必要はないよ。鍵はボクが持ってるし、出入りも自由だ」
 むしろ、市河さんや碁会所のお客さんに逢わないように、わざわざ裏
の通用口に回ったくらいだ。
「さぁ、どうぞ」
 使っていないとは言っても、週に一度は掃除をして貰ってるお陰で、
中は清潔で快適だ。先に進藤を奥に入らせ、いつもそこに置いてあるは
ずのものを棚から取り出し、パンツのポケットにしまった。これが必要
になるかどうかは、彼の出方次第だけれど。
 座るように勧めた応接セット、進藤は一人がけの椅子ではなくソファ
の方に、なぜか大きく右側を開けて、腰を下ろした。
「先に飲む?」
 下の自動販売機で買ったスポーツドリンクを、彼の前に置いてやる。
「あっ、サンキュ」
 冷てぇと言いながら三分の一まで飲んだ後、おまえは信じられないか
も知れないけれどと、進藤が切り出した話は、確かにすぐには信じられ
ないものだった。
 平安時代、帝の囲碁指南役であった藤原佐為という人物が、その死後
も神の一手を求める余りに成仏できずに進藤に取り憑いている。しかも、
進藤の前はあの本因坊秀策に代わって碁を打っていた・・・。
 もし、ボクがまったく碁を知らなかったのなら、頭から信じなかった。
ただの進藤の妄想か、それとも虚言癖があるのかと疑っただろう。
 だけど、ボクは初めて相対したときの、進藤の打ち筋を知っている。
過去の産物とは言わないまでも、今ではあまり使われることのない古い
定石、それを補って余りあるほどの棋力。そして、奇しくも、あのアマ
の囲碁大会の会場で、誰かがsaiを評して言った言葉・・・。
 本因坊秀策が現代の定石を学んだような・・・。



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