敗着-透硅砂- 6 - 10


(6)
「こんにちは…」
平静を装って挨拶を返したが、緊張で声が震えそうだった。
「…買い物…?」
進藤が訊いてきた。
「うん…。ちょっと…」
傘を叩く雨の音に混じって進藤の声が聞こえる。見ると本屋の袋を小脇に抱えていた。
「あの…あのさ、塔矢…」
ヒカルが言い出しにくそうに、躊躇いながら言った。
「あのさ…。オマエ…、ずっと…ウチ、来てくれたんだってな…」
顔が熱くなった。
過去に自分がしたことを持ち出され、羞恥で顔が赤くなったような気がした。それを悟られまいと少し俯き隠すように傘の位置を下にした。
「……その、オレ…いつも留守にしてて…」
それを聞いて傘の持ち手をきつく握りしめた。
―――それがどうしたと言うんだ?
今更そんなことを言って、キミは緒方さんのところへ行っていたんだろう?
そう言って殴りかかりたい気持ちを抑え、黙って聞いていた。
「その…ありがと…な…。来てくれて…」
その言葉に顔を上げると、進藤と目が合った。傘から滴り落ちる水滴の向こうに進藤の瞳があった。
何も言えなかった。
しばらく黙って見つめ合っていたが、俯いて目線を逸らした。
「…悪いけど、ボク急いでるから…」
そう言って進藤の横を通り抜けた。
すれ違う瞬間、進藤の傘と自分の傘がトンとぶつかり、手の中で傘の持ち手が小さく回った。
パシャパシャと雨水を跳ねながら急いで階段を降り、歩道を何メートルか進んだところで立ち止まって後ろを振り返った。
歩道橋の真ん中で、透明の傘を持った進藤が自分を見つめていた。
雨のカーテンに遮られ、滲んだように見えてはいるが、灰色の空を背景にして立っている進藤と見つめ合った。
周囲の音が消えた。

突然聞こえた車のクラクションで現実に引き戻された。
雨の音と人々のざわめきが耳に入ってきた。
歩道橋の上から視線を外すと、足早に歩き出した。
今度はもう、振り返ることはなかった。


(7)
辞書をめくる手が止まった。
歩道橋で出くわした進藤のことが頭から離れなかった。結局、本屋へは入らずそのまま家に帰って来てしまった。
(ああ、もう…、)
一向に進まない復習を断念して、教科書を閉じた。
(……本当に驚いた…)
思い出すと心臓がドキドキする。
(ボクが家に行ってたこと、知ってたんだ…)
自分が過去にせっせと進藤の家を訪ねていたことは、今となっては恥ずかしいばかりだった。
考えると憂鬱になるのでそれ以上は考えることをやめた。
(今でも避けられてるのかな……。ボクは…)
手に持ったシャーペンをしばらくもてあそんでいたが、ノートを閉じて机の脇へ寄せるとレポート用紙を取り出して目の前に置いた。
(……郵便物の受け取り拒否はされてないだろう…)
表紙を開き下敷きを挟み込むとシャーペンを走らせた。
”拝啓”……

時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げ

そこまで書くとおもむろにそのページを引き千切り、力任せにグシャグシャと丸めた。
自分の性格が嫌になった。
振り向いて屑篭めがけ思いきり投げつける。紙の球はその少し手前でポトリと畳に落ちた。
(囲碁とお勉強ばかりしてきたお坊ちゃん)という緒方の言葉が胸に突き刺さった。
がっくりとうな垂れ立ち上がると、のろのろと拾いに行き屑篭へゴミを捨てる。
ため息が出た。
畳の上にぺたりと座り込み、屑篭の網目模様をしばらく眺めていた。
(そうだ…)
ふと思い出して机に戻り、上から二段目の引き出しを外した。
(まだ雨は降っているな…)
家では極力控えていたものだ。
机の前にひざまずくと腕を思いきり伸ばし、引き出しが入っていた空間の奥を探る。
(……、…あった。)
指の先に触れた物を取り出すと、机の上に置いて立ち上がった。


(8)
取り出した赤い箱からライターと煙草を一本取り出した。
煙草の箱を辞書の陰に隠すと障子を開け廊下に出て、鍵を外して引き戸を開ける。
霧のような細かい水滴を含んだ空気が静かに顔を包み込んだ。
煙草を口にくわえると、碁会所の客が忘れていった百円ライターで火を点ける。雨が匂いを消してくれるような気がした。
深く吸い込み、口から煙草を抜くとゆっくりと煙を吐き出す。
(ボクは……お父さんの望むように生きてきた…。)
ゆったりと柱に凭れかかり顔を柱にあてると外を見た。
戸を開けたところから部屋の明かりが漏れて、暗闇に紫陽花が浮かび上がっている。雨粒が花弁を叩いて葉の上にぽたぽたと雫を流していた。
(だけど…、…気がつけばボクは陰でお父さんが悲しむことばかりしている…)
顔を上げ空を見上げた。
部屋からの明かりが漏れるところには大きな雨粒が降ってくるのが見えたが、軒先のその向こうには墨のように黒い空が広がっているだけだった。
(もうすぐ止むかな……)
遠くで雷が鳴っていた。


(雨…やんだのかな……)
外が静かになっているのに気がついて、ヒカルは窓を開けた。
(やんでる…)
窓枠に肘をかけ外を見渡した。気温は少し下がっているようだった。樹木や建物から水滴が滴り落ちる音がかすかに聞こえてくる。
傘の下のアキラの顔が蘇った。
(塔矢…。)
胸の辺りが少し痛んだような気がして、手を当てて軽くTシャツを握った。
目線を落とし、玄関の門扉を見下ろした。雨が空気中の埃を洗い流したのか、門灯がいつもよりくっきりと光って見えるようだった。
(あいつ…いつも来てくれてたんだよな…)
その時、自分は緒方の部屋にいた。
(あいつ…、どんな気持ちであそこに立ってたんだろう……)
門の外に立っているアキラが見えるような気がして、慌てて目を逸らすと顔を上げた。
小さくため息をつくと背筋を伸ばし、遠くにゆらゆらと揺れている街の灯をじっと見つめた。


(9)
サイドボードのガラス戸をアルコールを含ませた布でくるくると拭く。
ペタペタと指紋が付いて中の瓶の位置が変わってはいたが、瓶の中身が減っている様子はなかった。
(さすがに飲めなかったんだな…)
子供が飲んで気に入ると思えるような味の酒を並べているつもりはなかった。
(いつだったか…この中のものを机に並べたてたことがあったな……)

食卓の上に酒瓶がいくつも並んでいる。
「すごい、色々あるんですね」
そう言って興味深そうにアキラが一本一本を手にとってラベルを読んだりしている。
二人で食卓の周りに立っていた。
シェーカーを十数回振り終え、トップを外すと中身を静かにグラスに注ぎ入れる。
アキラが物珍しそうにシェーカーを見ている。
「ほら…できたぞ」
遠慮がちに、薄いオレンジ色の液体が入ったシャンパングラスをアキラの前に滑らせた。
「なんですか?これ」
「カクテルだ。…お前に」
「ふうん…きれいな色ですね…」
グラスを鼻に近づけ匂いをかいでいる。
「こういうのって…名前、あるんですか?何か…」
「ああ…。似合うと思って…」
「これがボクに?…何ですか?名前。…いただきます」
嬉しそうに一口飲んで訊いてきた。
「エンジェル・フェイス」
照れくさかったが、本当にそう思っていた。
口からグラスを離し、アキラは一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐにクスクスと笑い出した。
「おもしろいんですね、緒方さんて」
つられて一緒に笑った。照れ隠しだった。
「ごちそうさま」
飲み干すと、ふと食卓に目を向けた。
「それは?…」
自分の目の前に置いてあるグラスを指差した。
「ああ、これは俺が飲もうと思って…、スリーミラーズ…」
「それも頂いていいですか?」
「あ、オイちょっと待て――」
制する間もなく、アキラはグラスを取り口につけると、顎を上げグラスを傾けた。
まだ発達していない喉仏が僅かに上下している。白い喉元が黒のVネックのニットによく映えていた。
その様子に見惚れていたが、はっと我に返って慌てた。
「おい、それ…きつかっただろう?」
グラスの中は既に空だった。
「…ごちそうさま。これもいいですね」
そう言って口を拭うと、グラスを置いて微笑んだ。


(10)
ガラス戸を拭く手を止めて立ち上がると、一息ついた。
布をその辺に置くと煙草をくわえて火を点ける。紫煙が辺りに漂った。
(雨が上がったな…)
外が静かになっているのに気がついて、灰皿を持つとベランダに出た。
気温は少し低めだった。
雨が跳ねて濡れた手すりの乾いたところを探して肘をかける。部屋から漏れる明かりに背を向けて出来た自分の影に、煙草の火が赤く燃えている。

情事の後にシャワーを浴びて、バスローブを引っかけるとリビングに行った。
アキラが大きめのバスローブに身を包み、足を組んでゆったりとソファでくつろいでいる。
「…おい、また飲んでるのか?」
アキラの前に置かれたグラスに目がいった。
「ふふ…。ボク…色々と混ぜるよりも…、そのまま飲むほうが好きです」
髪に指を絡ませくるくるといじりながら、気だるそうに笑って答えた。ブランデーグラスの底の方に液体が注がれていて、その横にブランデーの瓶が置かれている。
その瓶を見てぎょっとした。
(ハーディ、ノスドール…。……値段を知っててやってるのか?このボクちゃんは…)
こっそりと小さくため息をついた。取って置きの一本だった。
「それならニコラシカでもつくってやったのに…」
確かレモンなら冷蔵庫に入っていた。
アキラの正面に、サイドテーブルを挟んでソファに腰掛けた。
シャワーを浴びて体が火照っているのか、アキラのバスローブの合わせ目から覗く白い胸元には、うっすらと汗が滲んでいる。
持っていたタバコの箱を振って中身を一本出すと口にくわえる。
アキラがそれをじっと見つめていた。
「――喫るか?おまえも」
ライターを取り出そうとした手を止めて訊いた。
「……お気づきでしたか?」
さして驚く風もなく、膝に肘をかけて小首をかしげるとニッコリと微笑んだ。
「匂いでな…」
「ふっ」と鼻で笑うと目を伏せて小さく頭を振る。
「敵わないなあ…緒方さんには」
顔にかかった髪をかきあげて目を細めるとそう言った。
「そら」
箱から一本出すと、アキラの前に差し出した。
「では、失礼します」
頭を下げ、それを抜き取ると慣れた手つきで口にくわえる。
その様子を見届けライターを取り出した。
両の手の平でくわえた煙草を包み込むように火を点ける。火が点いたことを確認し手を下ろした途端、目の前に迫るアキラの顔に気がついた。
両手をテーブルにつき、上半身を伸ばして、口にくわえている煙草を今火を点けたばかりの煙草の先に触れさせようとしている。
長い睫毛が伏せられて、形の良い鼻梁のその先に、煙草をくわえた唇が小さくすぼめられている。
ほっそりとした顎から首筋にかけてさらさらとした髪がかかり、そこからバスローブの襟元に目を移した。首筋から胸にかけて、細かな汗の粒が白い肌に光っている。
煙草の先と先とが触れ合い、やがて中の草が赤く光りだした。
目を細めそれを確認すると、アキラは元の体勢に戻ってソファに腰を下ろした。煙草の先が赤く光り、口から離すとアキラの周りを煙が囲う。
紫煙越しにその目を見つめた。
「……いつ覚えた…」
それには答えず、僅かに口の端を上げただけだった。目は笑っていなかった。



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