恋 Part 2 6 - 10
(6)
―――――35.3
熱はなかった。
「これが、君の平熱?」
僕は驚いて尋ねていた。
「うんにゃ、普段は6度以上あるよ」
「冷えたのかな。今日は三月とは思えない冷え込みだったからね。
あ、勝手に冷蔵庫開けさせてもらったよ。牛乳があったからココアにしたんだけど」
「ココア、好き。サンキュー」
進藤はにっこり笑って、マグカップを受け取ってくれた。
ベッドヘッドに上半身を預けて、両手でカップをはさむようにして、ふうふうと息を吹きかける様子が、まるで小さな子供のように思えた。
こんな進藤を目にするたび、僕は「可愛い」と思う。
今年17になる同い年の男性を「可愛い」と思うなんて、きっと僕は間違っているんだろう。
でも、本当に可愛いと思うんだ。
「あつっ」
進藤が小さな悲鳴を上げる。
「慌てるからだよ」
僕も進藤のベッドに腰を下ろし、ココアを口にした。
「これ、母さんが作るのと、なんか違う」
「体温計の入っていたサイドボードにお菓子用のエッセンスとかが入ってたんだ。
見たら、ラム酒があったから少し垂らした。うちではいつもこうするんだけど、口に合わない?」
「ううん」
進藤が首を横に振る。本当に子供みたいだ。
「メチャクチャうまい」
そう言って、マグカップを傾ける。
その仕草の一つ一つが、可愛く思えて苦しくなる。
棋士として快進撃を続ける進藤ヒカルは、強いまなざしときつい言葉で、周囲に脅威を与える存在だ。
現在連勝街道を驀進中で、先月の大手合いでは、悔しいことに僅差で敗れた。
この成績がなかったら、鼻持ちならないと謗られるだろうが、僕らは常に勝敗が競っているのだ。誰が何を言えるだろう。
(7)
そんな彼が、僕の前では時々子供のようになる。
以前は、碁板を挟んでの喧嘩腰の会話がほとんどだったけど、あの告白から少し変わった。
甘えてくれてる……と、僕は思っているんだけど、自惚れではないと思う。
思いたい。
「塔矢?」
「え?」
「何、ぼんやりしてんだよ」
僕が考え事をしている間に、ココアを飲み干した進藤は、空になったマグカップを手に僕の顔を除きこんでいる。
「少し…ね」
答えにならない答え。
「僕のも飲む?」
「遠慮なく」
そう言って、僕の飲みかけに嬉しそうに口をつける進藤は、嫌になるほど無邪気だ。
「ココアのおかげかな。少しだけ血の気が戻ったような気がする」
「塔矢のおかげだよ」
進藤はそう言って、小首を傾げるようにしてまた笑った。
あ、まずい。と、思った。
スイッチが入ってしまった。
それまでも散々可愛いと思っていたんだ。
ちょっと、止められそうにない。
僕は空になった二つのカップを、机に置くと進藤の顎に手を伸ばす。
それがどんな意味を持っているか、進藤だってわかっている。
そっと顔を寄せる。
どこで目を瞑るかは、いつだって僕にとって難しい問題なんだけど、進藤はどう思っているんだろう。
目を瞑る寸前、唇の端に茶色のしみがある事に気づいた。
ココアのしみ。
無意識に、舌先でそれを確認していた。
幽かな甘味が、目を瞑った僕を支配する。
もっと味わいたくて、舌を動かしていた。
進藤の体がぴくっと揺れた。無理もない。
(8)
今まで――――、
僕たちのキスは唇を触れ合わせるだけのものだった。
初めての冒険。とてもささやかな。
僕は、進藤の唇を舌で何度も確かめた。
ココアの味なんてもうしない。でもそれ以上に甘く感じられた。
「ぅ……ん……」
進藤の唇がわずかに動いた。その一瞬を僕は見逃さなかった。
舌を滑り込ませる。
ココアの味。
僕は、空いているほうの手で、進藤の後頭部を押さえると、生まれて初めての深い口付けを味わった。
舌で舌を探る。
不思議だ。
誰が教えてくれたことでもないのに、僕はちゃんとディープキスのやり方を知っていた。
今までのキスが、幸せな気分をもたらしてくれるものだとしたら、いま初めて知るこれは気持ちのいいものだった。
夢中になる。
夢中になって、進藤の口腔を探っていく。
呼吸を重ね、唾液を貪る。
そのうち、腕のなかで進藤が力を失い、くたりと体重を預けてきた。
離れがたい思いを堪えて、唇を離した。
そのとき、ちゅっと、可愛い音がした。
僕の胸の中に倒れ掛かってきた体が熱い。
「進藤?」
名前を呼ばれて見上げる瞳が潤んでいる。
「おまえ……」
僕の仕掛けた悪戯で、進藤の唇は赤く染まり濡れている。
「…いま俺の…中にいた……」
熱に浮かされたように進藤が囁く。
鼓動が跳ねる。
僕は、進藤の体を掻き抱き、押し倒した。
そのとき、進藤がまた囁いた。
「もっと………」
血が騒ぐ。
それは、僕がはじめて進藤に欲情した瞬間だった。
(9)
「どうすりゃずっと一緒にいられんのかな」
最近の進藤は、別れしないつもこんなことを呟く。
そのたびに、僕の胸は切なくなる。
あの、ひどく寒かった春の日から一ヶ月が過ぎていた。
相変わらず碁盤を挟んでの遣り取りは容赦のないきつい言葉と正直な感情の応酬だけど、碁笥に石を戻してしまえば進藤は子供のように素直になる。
進藤は二人きりになるとすぐにキスを欲しがる。
唇を触れ合わせるだけのバードキスじゃだめなんだ。
舌を絡め合う、激しいキスでないと満足してくれない。
僕の体を痛いぐらいに抱きしめて、キスを強請る。
唇を離すと、今にも泣きそうな瞳で僕を見上げて、「もっと」と囁く。
その言葉に煽られて、僕は夢中になる。
あの日も、深いくちづけを繰り返すだけで、それ以上は進めなかった。
進藤のお母さんが帰ってきたからだ。
あの日も、夕食を呼ばれたけれど、おばさんの顔を直視できなかった僕は、逃げるようにして帰ってしまった。
玄関を出たところで、進藤は縋るような目をして「帰るなよ」と引き止めてくれた。
僕だって帰りたくなんてなかったよ。
だけど、その日はさすがにね。自分でもまずいと思ったんだよ。
恐らく、自分を止められない。
あの日、僕ははじめて進藤を抱きたいと思った。
キスの先にセックスがあることは勿論知っていた。
男同士でもそれが可能だということも。
だけど、あの日まで僕に進藤を抱くというヴィジョンはなかった。
初恋なんだ。
初めて家族以外の人を好きになったんだ。
その気持ち自体、なかなか掴みきれなくて、長い間苦しんでいたんだ。
同じ気持ちを共有しているだけで、幸せだと思っていた。
今だと挨拶にもならないような可愛いキスで、僕は十分満たされていた。
「好きだ」と告白した。
「同じ気持ちだ」と言ってくれた。
それだけで奇跡のようだと思っていたんだ。
(10)
でも今は………。
奇跡を無邪気に喜んでいた時間は終わってしまったんだろうね。
僕は、あの日、好きだとわかりあった先にある、甘い感覚を知ってしまった。
「好きだ」と告げて微笑み合うとき、胸の中にあふれるのは穏やかな感情だ。
衒いもなく言ってしまえば、多幸感。
でも、貪るようなキスの最中に湧き上がったものは、感情ではなかった。
―――――感覚
それは飢餓感にも似た激しさで、僕を支配する。
僕は知りたい。
キスだけでこんなに夢中になれるのなら、その先にはどんな快感が待っているのだろう。
僕は知りたい。
進藤の唇だけじゃもう足りないんだ。
進藤の全身にキスをしたら、いったいなにを感じるだろう。
彼の何もかもが知りたい。
彼の全ては僕のものだ。
*** Part 2 終 ***
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