暗闇 6 - 10
(6)
次の日。
また帰りの靴箱で『進藤、二人で新しい棋譜を作ってみないか。今夜12時、ここで』と書かれたメモが、
ヒカルの靴箱にあった。
ヒカルはぼんやりとメモを見つめた。
「お疲れ様」
塔矢が自分に声をかけ、すれ違う。
「とう・・!」
真っ直ぐなその後姿に声をかけようとした時、自分の背後で立っている男の気配を感じた。
男の手がヒカルの肩におかれ、ヒカルは恐怖で後ろを振り向けない。
「塔矢君じゃなくて、ごめんね、進藤君」
男が静かに言った。
ヒカルは小さくなる塔矢アキラの背中を見つめた。唇が震える。手の中が汗ばんでくる。
――――わかっていた。だけど、オレ、塔矢だったらって。
そうだったらいいなって、思っただけだ。先生だって事は、小さい頃からオレ、先生の事知ってたし、
ああ、多分って思ってた。塔矢なはずないよ、オレの頭を撫でてくれたの、大人の手だったからって。
だけど。だけどオレ。
「好きだよ、ずっと君の事、好きだったよ。進藤君」
ヒカルは先生に囁かれて涙が溢れた。でも、ゴメン、先生、オレ。
棋院の外に出て、塔矢アキラはふと振りかえって遠くて小さいヒカルを目を細めて見た。
多分きっと、ヒカルも自分の背中を見ている。
塔矢アキラはヒカルが泣いてる気がした。
泣いているような気がしたのに、
ヒカルは散る桜の花びらの向こうで塔矢アキラに手を振っていた。
自分に気がつき、笑っている。進藤。
アキラは、戦う時しか上手く自分を出せない。
『進藤』心の中で呟いて、アキラも静かに微笑み、
進藤ヒカルに背を向けた。
(7)
「伊角さん、どうしたんだよ?」
老人をおぶり、公園の前を横切ろうとした伊角をベンチでコーラを飲んでいた和谷が呼び止めた。
「お爺さん、ぎっくり腰だって。あっちの信号で車に轢かれそうになって。家、すぐ傍だって言うし、家まで送ってあげようと思って」
「へえ。・・あれ?」
「おお、和谷君か!」
「進藤の爺ちゃ・・お爺さんじゃん!」
驚いた和谷に伊角も小さく笑った。
「ジイちゃん!まったくもーっ!年なんだからタクシー拾って来いっての!ホントにごめんな、和谷、伊角さん」
ヒカルは困った顔をして祖父を家に担ごうとしてよろける。
「イイよ、進藤。このまま部屋まで運ぶから」
「ごめん」
ヒカルは伊角を誘導し、和谷に布団をひき寝かせる。
「元気そうじゃん、進藤」
和谷が冷蔵庫を開けてジュースを出そうとするヒカルに言った。
「オレはいつだって元気だよ」
「嘘つけ!いくらお前、早打ち得意だっていっても、昨日の対局何だよ」
「あ・・足、ちょっと捻ったみたいでさ!あんま座ってられなくて」
「足ぃ?」
「もう大丈夫。みんな今日はオフなんだ」
「ああ、・・・そうだ、進藤、伊角さん、今夜オレんちこない?もんじゃ大会しようぜ!ハハ。進藤、伊角さんてもんじゃ食った事ないんだってさ!」
「ええっマジ?」
「そんなに驚く事か?」
「食わせてやろうぜ進藤、スペシャルもんじゃ!ベビースターかってこなきゃ」
「ええ、それお菓子いれるのか?和谷!?」
「スゲー!食ってみてぇ!」
「じゃあ決まりだな、来いよ」
ヒカルがはしゃぐ。
和谷はホッとした。最近元気がなくて、またいつぞやのスランプ再びかと思ったら、どうやら違うみたいだ。
少し足を引きずりながら、ヒカルが鞄を取ってきた。
「本当に、足大丈夫か?転んだのか?お前いつも慌しいからなぁ」
「和谷に言われたくないやい!」
ヒカルは膨れて、また笑った。
伊角は黙って遠慮するヒカルの鞄を持ち、三人は和谷のアパートに向かった。
(8)
「ああ−!食った食った!」
満足げに畳に倒れ込む和谷。ヒカルは伊角の皿に最後のもんじゃを乗っける。
「意外に美味かったね、ベビースター」
ヒカルが言うと、
和谷は目を瞑ったまま笑って
「新しい一手だったろ、進藤。食後に一局打つか?」と言った。
ヒカルは笑った。
夜も更け、何局か打った後、そうだ、銭湯に行こうぜと誘う和谷をヒカルはかたくなに拒んだ。
「オ、オレ、シャワーでいい、足、早く治したいし。碁石片付けとく。二人で行って来てよ」
ヒカルの言葉にじゃあ、と二人は出ていく。閉じるドア。ヒカルは並んだ白と黒の碁石を見つめる。
『進藤、二人で新しい棋譜を作ってみないか。今夜12時、ここで』
あのメモを思い出しヒカルはトイレに駈け込み吐いた。
「・・・チクショウッ!!」
叫ぶと身体の奥に残る痛みが増す気がした。
忘れなければ。――――あれは塔矢じゃなかったのだから。
銭湯の帰り道、伊角がボソッと
「なあ、和谷。進藤、またスランプなのか」
「・・・違うと思うけど、でも」
和谷は口元に手を当てて、考えこむ。伊角は夜空を見上げた。
炬燵布団を布団代わりにし、ヒカルを真ん中に三人は川の字になって寝た。
寝返りを打つヒカルに、「眠れないのか?布団薄いもんな。お前ベッドだっけ」と和谷が声をかけた。
「いや、大丈夫・・うん、ここ何日か眠れないんだ。今日は楽しかったから、きっと眠れる」
「寝てないのか?」
「うん。・・・うん、眠れない時って、二人はどうしてる?」
ヒカルの囁く声に伊角はむくりと起き上がり、
碁石を二つとってきて布団の上に投げ出されていたヒカルの両手に一つずつニギらせた。
「?」
「オレはこれで大事な対局の前の晩、心を落ちつかせる」
「へえ・・伊角さんらしいや。サンキュ」
ヒカルは小さく笑って、目を閉じた。
「・・暗闇が怖いんだ。オレ」
和谷は驚いて、「なら、明かりつけるぜ?ついてても眠れる、なぁ伊角さん」と言った。
ヒカルは笑って、「いいんだ、怖いけどさ、勝たなきゃ。なんだってそうじゃん」と言った。
「・・・」
和谷は自分の片方の手をヒカルが白の碁石を握っている手の上から被せる様に握りしめた。
伊角もヒカルの逆の手を。
途端にヒカルが嗚咽を洩らす。
伊角と和谷は一言もヒカルに声をかけられず、ただヒカルが三日ぶりに眠りにつくその時まで、
ヒカルの手を碁石ごと握り続けた。
(9)
次の日。
棋院での手合いを終え、夕暮れ、
ヒカルは靴箱の前で深呼吸して、靴箱を覗きこんだ。
何も無い。ホッとするヒカルに、
伊角と和谷がすれ違いざま
「何やってんだよ進藤!ラブレター待ってんの?」
ハハハ、と笑って声をかけてきた。
「何でもない、またな!」
「おーっ」
手を振る和谷と微笑む伊角にヒカルは御辞儀して、
『ありがとう・・伊角さん、和谷。オレ、もう多分、大丈夫だ』と心の中で呟いた。
「進藤君」
ビクッと肩を震わせ、恐る恐る振りかえる。
「白川・・センセイ」
白川は笑って進藤を見つめる。
「昨日電話したんだけど、泊まりに行ってたんだって?和谷君の家に。伊角さんと一緒に?」
「・・・」
「3人でしたのかい?セックス、覚えたからって、悪い子だ。進藤君」
ヒカルはカッとなり拳を振り上げた。
白川は穏やかな顔とは裏腹に強い力でその腕を制し、ヒカルに無理矢理顔をぶつけ、接吻をした。
歯がぶつかり、ヒカルの唇が切れた。血の味がして、ヒカルが暴れても、
それすら楽しむようにヒカルとの口付けを白川はやめなかった。
その時。塔矢アキラの驚いた顔が白川の肩越しにヒカルの目に映った。
「―――!塔矢!!」
アキラは何か言おうとして口を動かし、
言葉は音とならずにヒカルの前から去った。
ヒカルは白川を突き飛ばし、吐き出すように、言った。
「・・・センセイ、白川先生!」
「・・なんだい、進藤君」
「先生」
「・・・」
「―――先生は暗闇なんかじゃないよね。いっつも、オレに会う時はいつも明るく笑ってた」
「それは、君が好きだったからだよ」
「オレは―――」
「進藤君も、気持ち良かったでしょ?君は飲みこみが早い。碁だけじゃなくて・・」
ヒカルは首を激しく振った。
「・・先生、先生!もういいよ、オレ、オレ・・塔矢が」
「・・・塔矢君、が?」笑う白川をグッと睨み付け、ヒカルは叫んだ。
「わかんないけど、オレ、目を閉じたら一番初めに塔矢がそこにいて、
最後にいるのも塔矢なんだ。あいつの背中だけで、オレ、いいんだ。先生じゃ、ないんだ!」
「・・・」
「そんなオレ、やだろ?塔矢の名前しか呼べない。
暗闇の中で、オレが呼びたいのは塔矢の名前だけだ。塔矢はオレの」
「・・・」
「光なんだ」
さよなら先生、ヒカルはそう言って靴を履き、白川の前から走り去った。
「オレは―――先生が嫌いですって一言言ってくれたら、諦められるのに。進藤君は―」
白川はポケットの中のメモを破り、外に出て花びらと共に撒いた。
「本当に可愛い。だからやっぱり、諦められる訳、ないな」
(10)
ヒカルは塔矢アキラの背中を追った。どんなに遠くても、自分ならわかる。
塔矢の背中。決して自分に振りかえらない背中。
真っ直ぐに前を向いて歩く塔矢―――――いた。
塔矢、塔矢!
「!!?」
塔矢は目の前からくる自動車に気付かないのか?
「塔矢、塔矢!!」
ヒカルは引きずる足を庇わず走り、
塔矢の身体に後ろから抱きつく。車がギリギリの所で走り去る。歩道に倒れ込む二人。
「・・塔矢のバカ!死んじまうじゃん!前みて歩いてて、なんで前から来る車見えないんだよ!」
「…ボクは」
「なんだよ!」
「棋院の玄関にいた、ボクの後ろにいるキミに気を取られて歩いていた」
「え」
「キミに、お疲れ様って、今日は言えなかったと・・」
ヒカルはビクッとし、塔矢の身体から離れた。
「・つ!」
ヒカルの身体に激痛が走る。
「・・!進藤、どうした!?」
「な、なんでもねぇよ!」
「今ボクを庇って!」
「何でもねぇってば!」
ヒカルはうつむき、
「お前の為だったらこんな痛み、・・なんでもねぇのに」と小さくつぶやいた。
アキラはヒカルをおぶり、近くの桜の散る公園の奥の芝生に横たわらせる。
ポケットの白いハンカチを近くの水道で濡らし、
道路に転んだ時すりむけたヒカルの顔の擦り傷にあてる。ヒカルは痛さに顔をしかめ、アキラの顔を見た。
そして何故か小さく笑った。
「何だ?」
アキラがムッとする。
「お前の顔傷つかなくて良かった」
「・・・」
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