失着点・境界編 6 - 10
(6)
寿司折りの一つを持っていくよう芦原が勧めるのを断って、ヒカルは
アパートを出た。
「気をつけて帰りなよ。」
心配そうに玄関で見送る芦原とは対照的にキッチンの奥でアキラはコンロの
前に立つ。そして声が出ないように口の中でつぶやいた。
「…ごめん…、進藤…。」
帰りの地下鉄の中でヒカルはドア際に立ち、窓の暗闇を睨み続けていた。
あの部屋で誰かと居合わせたのは初めてだった。
碁会所や、棋院会館で他の誰かと一緒にアキラと向かうのとは違う。
あの部屋であれだけ深く激しく結びつき合い、ついさっきまでもああいう
行為をしていた。
そこに侵入者を、他の誰かを普通に招き入れる事ができるアキラが、
やはりヒカルにとっての常識を超える人種に思えた。
自分はアキラのものになってしまっている。悔しいけど。
でも自分はアキラを完全に自分のものにしきっていない。
そんなふうに感じた。
あの時、アキラに呼び止めてもらいたかった。
芦原がいるのもかまわず、自分の腕を掴んで部屋の中に連れ戻し
首筋にキスをねだるアキラの姿を願ったのだ。
そうすれば自分だって骨が軋む程アキラを抱き締めて芦原を睨み返す事が
できた。これでわかっただろう、気安くここへ足を踏み入れるな、と…
「…どうかしている。」
電車は暗闇の中を走り続ける。一つの方向へ。
(7)
その夜はなかなか寝つけなかった。それでも目を閉じてジッとしているうちに
朝が来て、それなりに気持ちは落ち着いた。
今日は数カ所での指導碁の仕事がある。
ヒカルははっきりしない頭をどうにかするためにシャワーを浴びた。
そう、仕事のために浴びるのだ。アキラのためじゃない。
いくぶん熱めのお湯で両手で髪を梳き、顔を擦り、胸から腰へと流す。
(進藤…)
ふと、二人でシャワーを浴びながらもつれ合った時の事を思い出す。
SEXの後は必ず一緒に浴びる。
行為は暗い部屋じゃないと嫌だったが、シャワーの時はなぜか平気だった。
アキラの体はきれいだった。意外に肩幅があり、骨格はがっしりしている。
着痩せするタイプなのだろう。
そのくせ臀部は女の子のように小振りで丸いかたちで柔らかい。
「塔矢…、」
無意識の内にヒカルは片手で自分自身を握り込み動かしはじめる。
しばらくして小さく呻き、湯とともに白濁の体液を床に落とした。
塔矢の中は、おそらくこの何十倍も気持ちいいのだろう。
二ケ所目の指導碁の会場で和谷と合流した。
「進藤、今度の日曜日、空いてるか?」
会うなり和谷はそう尋ねてきた。
「別に何もないけど…?」
「なんかお偉いサンのパーティーがあるらしいんだ。一緒に行かないか?」
(8)
「パーティー…?」
ピンと来なくて気のない聞き返し方をする。
「以前2冠とか取ってた人で、今度戦後の棋譜選集とか出したらしくて、
その人のキジュの誕生日祝いとか何とかを兼ねた出版記念…だっけ。
森下先生に『お前も顔出しとけ』って言われちゃって…。『進藤も連れ来い』
ってさ。」
あまり面白みがありそうとは思えなかったが、最近和谷とつるむ機会もあまり
なかったし、気分が少しは変えられるかと思った。
「わかった。行くよ。」
ゆうべあれからアキラから特に電話もなかったし、こちらからする気も
なかった。
パーティー会場は都内でも有名なホテルの大広間だった。
スーツを着て来るようにとは言われていたが、公共施設とかでのお年寄りの
寄り合いのお誕生日会みたいなものを想像していたヒカルは少し気が引けた。
華やかなシャンデリアの下、森下先生のお知り合いに一通りの挨拶を
させられた後、囲碁界の他にもいろんな業界人らしき人物らが
お祝いの言葉を述べているステージから遠く離れた場所で、ヒカルと和谷は
もっぱら口にする料理を選ぶ事に専念していた。
そしてパーティーの主役が花束を受け取るセレモニーが始まった時、
ヒカルは何気なくそちらの方を見て、手にとったばかりの皿を落とした。
若い女流棋士と共に塔矢アキラが花を持って現れたのだ。
(9)
ヒカルが慌ててかがもうとする前に給仕が業務的に素早く拾いあげ立ち去る。
「何やってんだよ進…、あれ!?、塔矢アキラじゃねーか!」
和谷もステージの方を見て驚いたようだった。
「珍しいな、塔矢門下って独特っていうか、こういう派手な場所にはあまり
出て来ないって聞いてたけど…。」
進行役が華々しいアキラの戦績を紹介する。確かにアキラはあまり居心地の
良さそうな顔はしていない。どちらかといえば、魂が半分抜けているような、
そんなふうに見えた。でもそれはヒカルの希望的な感想かもしれない。
ただ、こうして何かある毎に自分とアキラの距離を感じさせられる。
囲碁の力ならいつか必ず追い付く。追い抜いてみせる。
でもそうじゃない何かが、まだ自分とアキラを隔てている。
同じ空間にいながら、そう感じてしまう。
ようやくステージ上から解放されたアキラが会場の方に視線を向けた。
ヒカルは何気なく人垣の影に入って隠れ、アキラの様子を見ていた。
…自分に気が付くはずはない。こんなところにオレが来ているなんて、
思ってもいないはずだ。
アキラは2人の男性に呼び止められしきりに何か話し掛けられていた。
一人は協会の人っぽかったがもう一人は酒のグラスを片手に馴れ馴れしく
アキラの肩に手を置いたり背中をポンポンと何度も叩いたりしている。
「あのスケベそうな中年、出版関係の奴だよ。塔矢アキラに本でも書かせる
つもりかもな。…ま、オレ達には関係ないか。」
そう言って和谷は別のテーブルへ移動していった。
グラスを持った男の片手が、何かを払うようにアキラの腰に触れた。
それを見たヒカルは背中に火が走るようにカッと熱くなるのを感じた。
(10)
地方のイベントの指導碁の時など、そういう事態がないわけではない。
酔っぱらった参加者の中年男にヒカルもおしりを撫でられた事がある。
すぐに蹴り飛ばして逃げたが。
だが今ヒカルの苛立ちはアキラに向かっていた。
そういう連中に付け込むスキを与えるような奴じゃなかったはずだ。
『塔矢!!』
心の中で叫んでも何か行動を起せる訳ではない自分がいた。
急にこの会場にいる事が不愉快になってヒカルはドアを開け廊下に出た。と、
ほぼ同時にアキラがこちらの方に振り返り、少し見回して首を傾げた。
「…?今…確か…、」
ヒカルはトイレの手洗い場で気持ちを落ち着かせるために顔を洗った。
ふ−っとため息をつき、和谷には悪いけど、このまま帰ろうと思った。
そしてトイレから出た時、驚いて息を飲んだ。
すぐ脇の廊下の壁に腕組みをしてもたれかかって立っているアキラがいた。
感情が読めない、無表情な目でこちらをじっと見つめている。
ヒカルはすぐに言葉が出なくて突っ立っていると、アキラは無言のまま
くるりと背を向けると廊下をスタスタと歩き出していった。
「あ…、ま、待てよ、塔矢!」
だがアキラはちらりとこちらを見ただけで無言で遠去かって行く。
ヒカルはアキラの行動の意図がわからず一瞬迷ったが、すぐにアキラの後を
追い掛けた。アキラはホテルの長い廊下の突き当たりの角を右へ曲がり、
ヒカルもアキラに続いて曲がった。
そこでふいに腕を掴まれ、ヒカルの唇にアキラの唇が覆い被さってきた。
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