眩暈 6 - 10
(6)
「好きなんだ」
資料室の鍵を借りて一人で秀策の棋譜を見ていたヒカルの元にやってきたアキラの、
開口一番の言葉がそれだった。ヒカルはキョトンとして、真前に座って真っ赤な顔をしている
アキラを見つめた。アキラの言っている意味が全く分からない。
「…何が?」
「キミの事が」
「…何だって?」
「好きなんだ」
「…お前が?」
「ボクが」
主語と述語と目的語をハッキリさせても、やっぱりヒカルは分からなくて、頭を抱えた。
「そりゃオレだって、お前の事好きか嫌いかだったら、どっちかと言えば嫌いじゃないけど…」
「そう言う意味じゃなくて、その…れ、れ、恋愛・対象として、と言う意味で」
どもりながら更に顔を赤くするアキラと、恋愛対象という単語に目を丸くするヒカル。
「エッ?だってオレ男だぜ?」
「そんな事、百も承知だ」
「あ、わかった!実はお前、女の子だったとか?」
「疑っているなら、証拠を見せようか?」
「………いや、いい。見せなくていい。遠慮しとく!」
他人が聞いたらさぞ滑稽な会話であろうが、しかしヒカルはにわかに信じられなかった。
あの塔矢アキラが、このオレを…進藤ヒカルを?好き?あの塔矢アキラが!
未だ理解しきれていない様子のヒカルに、アキラは告白した事を少し後悔し始めていた。
それでも、今日こそは言うと決めたのだ。例え受け入れてもらえなかったとしても。
(7)
「レンアイ…お前、オレとキスとか抱きしめ合ったりとかしたいワケ?」
ヒカルの不躾な質問に、アキラは硬直した。口をパクパクさせて、やっとのことで声を出す。
「……キミが、良いと言ってくれれば、したいけど」
その言葉に納得したのかしないのか、また頭を抱えて考え込んでしまう。
ヒカルには、男が男を好きだと言って、ゲイだホモだと差別するつもりはない。
いや、むしろヒカルにも分かる気がするのだ、その気持ちは。
(オレが佐為のことを好きだった気持ちと同じかな?オレ、佐為は男だけど大好きだったもんな)
なるほど、そう考えると少し合点がいく。(実際はヒカルの想像とは少し違っていたのだが)
だが、アキラに対して同じ思いを抱いているかと考えると、ヒカルは正直分からなかった。
アキラはどうやら、ヒカルとキスやら抱擁やらがしたいらしい。
(オレはそんな事したいなんて思ったことないけど、試してみれば分かるかな?)
ヒカルなりにアキラの思いを懸命に理解しようと努める気持ちからだった。
不安げな表情になってきたアキラに、ヒカルは軽い口調で言った。
「じゃーさ、キスしてみよーぜ」
「…エッ!?い、今ここで?」
「うん、キスして悪くなかったら、きっとオレもお前の事好きなのかも知れない」
突然の申し出に心臓が止まるほど驚いたが、アキラは二つ返事で同意した。
椅子に座ったまま、互いの顔を近付ける。アキラの綺麗な顔を間近に見たヒカルは、
思わず見惚れてしまい、それから息を飲んだ。緊張してきたし、頭に血が上るのが分かった。
唇が静かに重なり、離れていった。お互いに真っ赤な顔を見合わせる。
「………ど…どうだった?」
「………べっ、別に…嫌じゃなかったけど」
こうして、ヒカルとアキラのの関係に、ライバル以外の項目が追加された。半年前、夏の日の事だ。
(8)
だからと言って、二人の生活は以前と全く変わらなかった。
碁会所で会えば対局して、検討して、世間話やお互いの事を話したりして、市河に別れとお礼を言って帰る。
棋院で対局日が重なっても、ヒカルは大概森下門下の友人とつるんでいたし、アキラも芦原達と一緒なので、
会っても軽く挨拶を交わす程度だった。アキラは昼食を取らないので、その時間も一緒に過ごす事はない。
アキラとしてはもっとお互いの仲をどうにかしたかったのだが、その気持ちがヒカルに伝わっているのか
大いに不安だったし、ヒカルはヒカルで、アキラが「レンアイ」と言う単語で自分と別の関係を繋ぎたいとは
知っていたが、どうしたら良いのか、方法が良く分からないでいた。
それでも、時間が有れば人気のないところでキスをしたり手を繋いだりして、アキラも少しづつではあるが
前進をしようと努力し、ヒカルもそれなりに察して応えようとしているようだった。
告白から数えて2週間目にキスの時に舌を入れた。ヒカルはびっくりして体を離したが、アキラが困った顔で
「嫌だった?」と聞くと、口をもごもごさせながら「い、嫌じゃないけど」と顔を真っ赤に染めて呟いた。
その時アキラは、ヒカルがこのような行為に全くの無知である事と、困った顔で攻めるのは案外有効らしい事を学んだ。
(9)
「何処へ行くんだ?進藤」
「おわっ!な、何だよ塔矢、いきなり…」
和谷達に並んで歩いていたヒカルは、棋院のロビーで待ち構えていたアキラにいきなり
腕を取られて、足止めを食わされてしまった。
少し離れた所で立ち止まった和谷が「置いていくぞー」と手招きをするのに「ちょっと待ってて」
と返して、アキラに向き直って「なに?」と話しを聞く姿勢を見せた。
「今日は碁会所で一緒に打つ約束をしただろう?」
「あれ、そうだっけ?ゴメン、これから和谷達とメシ食いに行くんだよ、伊角さんが奢ってくれるって言うからさ」
お前とはいつでも打てるし、また今度埋め合わせするから、とアキラの手を振りほどくと、
さっさと和谷達の元へと走っていってしまう。やはり忘れていたか…アキラの危惧した通りだった。
ヒカルがアキラとの約束を忘れたり、時間に遅刻したりする事は一度だけではなかった。
森下門下の友人や先輩、院生時代の友人達との付き合いでヒカルは何かと忙しいらしい。
しかしお互いに会える時間が限られている中での約束を反古にされる行為は、やはり面白くない。
自分の中で何よりも優先されるものはヒカルの事だと言うのに、相手にとってそれは同じではないらしい
と思い知らされているようで、アキラの中で不安が芽生え始める。
進藤を確実に自分のものとしなければ。アキラは焦っていた。
そして、意外に早くその機会は訪れたのだった。
(10)
いつもの碁会所…対局も検討も一段落し、二人は帰り支度を始めようとしていた。
「あーあ、晩飯どうすっかなぁ…ラーメンでも食って帰るかなー」
「何故?今から帰れば夕食の時間に充分間に合うだろう」
ヒカルの気だるげなぼやきにアキラは、外食ばかりじゃ体を壊すよ、と母親のようなお小言を言う。
「ちがうよ、今日はお母さんもお父さんも旅行行ってんの。今晩と明日の朝…オレ料理なんて出来ねーよ」
はぁー、とヒカルは盛大なため息をついて見せる。このチャンスを見逃すアキラではなかった。
「じゃあ、ボク泊まりに行っても良いかな?料理なら簡単なもので良ければ出来るから、作ってあげるよ」
「マジで?助かるよ、頼む!」
ヒカルはアキラの申し出に一も二も無く飛びついた。久しぶりに一人ではない帰り道に、ヒカルは浮かれた。
ヒカルは予想以上に出来の良いアキラの料理に驚きつつも、大喜びでそれを平らげ、意外な彼の能力を賞賛した。
終いには、「お前、いつでもお嫁に行けるよ」などと冗談を言って、アキラを複雑な気持ちにさせた。
後片付けも入浴も済ませた二人は、ヒカルの部屋でまた碁盤を囲んだ。
対局やその検討、詰め碁などをしている内に時間を忘れていたらしく、気付いたらすっかり夜も更けていた。
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