身代わり 6-10


(6)
シャッターの音に、ヒカルは少し緊張した。
横には五冠の塔矢行洋が立っており、圧倒されそうなほどの気を放っている。
新初段となったヒカルを、天野は興味深げに観察していた。まさかこの少年が、こんなにも
早くプロになるとは思ってもみなかった。いや、プロになるかどうかさえ、半信半疑だった。
しかしヒカルはプロになった。そしてそのヒカルを、行洋は相手に指名した。
(名人注目の新人、か……)
新初段シリーズの対局結果は、二つにわかれる。
すなわち、先を期待させる碁か、否かである。
塔矢アキラは前者であり、それにたがわない成績を残していっている。
(進藤くんはどっちかな)
そんな天野の記者の視線など、ヒカルはまったく気付かない。全身の神経はこれからの対局
に向かっていた。よって斜めうしろにいる佐為に気を払う余裕はなかった。
佐為は険しい顔をして立っていた。
「じゃあ、ちょっと軽くなにか会話をしてください」
「ハイ」
ヒカルはこくりとうなずき、行洋に向き直った。
腕組みをしながら、行洋は息子のアキラが気にしている少年を見つめた。
(会うのは、これで三度目か)
一度目は『全国こども囲碁大会』でだ。廊下でぶつかった。二度目は自分の経営する碁会所
でだった。緒方が引っ張ってきたのだ。ヒカルの実力が知りたかった。逃げられたが。
そして三度目の今日、プロとして自分の目のまえにいる。
(打てば、わかる)
無言のまま自分を見つめる行洋に、ヒカルも黙したまま視線を返した。
その様子に、周りの者たちは戸惑った。
何枚か話をしている写真を撮りたいのだが、行洋にはまったく話す気がないように思えた。
(うーん、まいったな。まあ、塔矢先生だし、しかたないかなあ……)
天野が合図を送ると、カメラマンは一礼をして下がった。
いよいよ、幽玄の間で対局するときが来たのである。


(7)
「今日は、アキラが来ている」
今まで口をつぐんでいた行洋が、ぽつりと言葉を口にした。
たったその一言に、心臓は跳ね上がった。なんと重厚な声なのだろうか。
「キミの力を見せてもらおう」
ヒカルは武者震いした。あの塔矢行洋と、打つのだ。一年前、アキラが座間王座と対局した、
あの部屋で。ヒカルはつばを飲み込み、足を踏み入れた。
だがその横を佐為がすり抜けた。そしてヒカルの座るべき席に、ためらいもなく座った。
(佐為!)
ヒカルの声を佐為は無視した。行洋と打つのは自分だ。
これは現世によみがえってからの悲願でもある。
目の前にその行洋がいるのだ。見ているだけなど、できない。
佐為の必死な面持ちを見て、ヒカルはひるんだ。しかし自分だって楽しみにしていたのだ。
なによりも、この対局はアキラが見る。
(佐為! どけ!)
だが佐為は微動だにしない。ヒカルになど見向きもせず、一心に行洋を凝視している。
入り口に突っ立ち、席をにらみつけているヒカルを、もちろん皆はいぶかしんだ。
「進藤くん?」
呼びかけられてもヒカルは応えない。そこに佐為がいるからだ。
他の誰にも見えない佐為を、見ているからだ。
「キミ、座りなさい」
それでもヒカルは座らない。
佐為の心が揺らいだ。ヒカルは座ろうと思えば、佐為がいても座れるのだ。だがそれをしな
いのは、自分のことを想ってくれているからだ。
佐為の揺らぎを決定づけたのは、他ならぬ行洋だった。
「進藤くん」
座らぬヒカルを、うながす声色だった。
行洋が対局者だと思っているのは、自分ではなくヒカルなのだ。
あきらめとともに、佐為は目を閉じた。


(8)
《ごめんなさい、ヒカル。ちょっと座っただけですよ》
それはひどく空虚に響いた。佐為の失望が、ヒカルにも伝わってくる。
(佐為……)
二人にしかわからない空気が流れる。佐為のために、自分はどうすればいいのだろうか。
自分はどうしたいのだろうか――――
(……よくわからない子だなあ……)
座っても表情をなにやら忙しく変え、思案げにしているヒカルを見ていると、天野のほうが
不安になってくる。
しかし塔矢行洋を相手にして、そわそわするなというほうが無理かもしれない。
対局開始が告げられた。同時にカメラマンはカメラをかまえ、ピントを合わせた。
しかしそのシャッターは二十分以上、押されることはなかった。

稚拙な手がすすみ、誰もが戸惑っていた。
「なんだよこの手。あいつなに考えてんだ」
「ここなんか、一瞬でつぶされそうだね」
新初段二人の話す声が聞こえてくる。しかしアキラは盤面だけを見ていた。
(なにか意味があるはずだ。あの手も、この手も、なにか特別な意味が……)
それを読み取ろうと全神経を集中させる。だがどうしても、ただのひどい碁にしか見えない。
画面は碁盤しか映さないので、二人の手が交互に行き来するところしか見られない。
ヒカルの顔が見たい、とアキラは思った。
いったいどんな顔をして、父の行洋と対峙しているのだろうか。
また父はどのような思いで、ヒカルと向き合っているのであろうか。
アキラは毎朝、行洋と打っている。そのとき行洋は、自分の内を透かし視るようなまなざし
を向けてくる。その視線にさらされると、決して隠しごとなどできないように思えてくる。
まるで心を裸にされているような感覚を味合わされるのだ。
そこまで考えて、なにか不快なものが胸のうちに込みあげてきた。
しかしそれが何に対してなのかはわからなかった。
アキラはかぶりを振って、余計な考えを追い出そうと努めた。
だがわけもわからぬ焦燥感が消えることはなかった。


(9)
佐為の指し示すところにヒカルは石を置く。
だがそれはかつてのように、漫然としたものではない。ヒカルは佐為の意図を感じ、理解し、
そして流れ着く先を見極めようとしていた。
佐為の刃が、何度も行洋に討ちかかる。しかしそれはするりとかわされる。
切っ先はなかなか届かない。
佐為は唇を引き結んだ。慌ててはいけない。最後まで粘って勝機を見出す。
あふれる佐為の気迫が身体を包み、ヒカルは自分がどんどん昂ぶっていくのを感じた。
それは性的なものにひどく酷似していた。
対局してこんなふうになるのは初めてだった。
佐為が誰よりも入れ込んでいる、行洋が相手だからか。
ふと胸元に触れてみた。服の上からでも乳首が硬くなっているのがわかる。
息が熱をはらんでいる。
(なんだよ、これ……なんでオレが……)
その状態はまるで手に取ったかのように、行洋にも伝わっていた。
自分も何度か経験したことがある。いや、現に今、行洋は興奮状態にいた。
新初段相手に、自分でも信じられない。
それだけではない。
せまい肩幅、細い腕、小さな手を見る。中学二年生の身体、それ自体は見慣れたものである。
だが息子のアキラには感じないなにかを、行洋は感じていた。
(戦いの行く先は、すでに視えている。だからか、詮無いことを考えてしまうのは……)
終局が見えたときこそ、気を引き締めねばならない。
息を吐くと、行洋は白石を碁盤に放った。


(10)
幽玄の間に入った瞬間、天野は妙な雰囲気だと思った。
互いを見つめ合う行洋とヒカルに、胸がざわめく。そしてそれは検討が始まると、ますます
大きくなっていった。
「……進藤初段、この一手の意図は?」
何度めかの質問である。だがやはりヒカルが口を開くことはない。
当たりまえだ。十五目の差を自らに課して打ったなど、言えるわけがない。
「進藤初段……」
誰もが焦れているのに、行洋ただ一人がすべてを心得ているというように腕を組んでいる。
そして質問を寄せ付けない空気をかもしだしていた。
にっちもさっちも行かない状態だ。
(塔矢先生までなんで黙っているんだろう。進藤くんのことを見下げたのかな?)
この一局を見れば、そう思わざるを得ない。
だがそうではないと、天野の長年の勘が告げている。
塔矢行洋は決して、ヒカルの評価を下げていない。
検討は早々に切り上げられた。誰もがすっきりしない顔をしている。
天野は退室しようとしている行洋を呼び止めた。
「塔矢先生、進藤くんと打ってどう思われましたか?」
「……進藤くんを待っていたのは、アキラだけではない。わたしもまた、彼を待っていた。
そのことがよくわかった。次は……」
誰の目も気にせず、二人だけで打ちたい。そんなふうに思う自分に行洋はわずかに驚く。
(不思議な少年だ。碁だけでなく、その気迫も、なにもかもが)
言葉を切ったまま、行洋は立ち去ってしまった。残された天野は首をかしげていた。
行洋の言葉はまるで謎かけのようだった。
(塔矢先生が待つほどの棋士なのか? 進藤くんは……)
手に持つ今日の対局の棋譜を見た。ひどい碁である。ここまでひどいのは過去にない。
それなのに行洋はなにかを確信したようだ。
天野は頭をかいた。しょせん自分は棋士ではない。わからないのも仕方がない。
「なんか進藤くんは、この先どうなっていくのか見当もつかないねぇ……」 
だからこそ、ヒカルの碁は未知数と言えるかもしれないと、天野はふと思った。



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