朧月夜 6 - 10
(6)
盤面を見て、アキラが小さな唸り声を漏らす。数手を交わした後に、今度はアキラが長考に入った。
月明かりの元に盤面を睨むアキラを、ヒカルはじっと眺めていた。
ずっと考え込むように顎を支えていた手が、ふと唇を擦った。
何気ない仕草が目に止まってしまって、ヒカルは心臓が小さく跳ねるのを感じた。
あの唇の感触を、まだ、覚えている。
突然、最後の夜のことを思い出してしまって、ヒカルは顔を赤らめた。
そして彼に気付かれぬようにそっと立ち上がり、逃げるように庭に下りた。
なぜ。
なぜ急に。
激しく暴れだした心臓を制御できずに、ヒカルは庭の立ち木に額をついて息を整えようとした。
突如甦る記憶の渦に、心と身体が混乱する。
熱い身体。熱い吐息。熱い囁き声。
熱く甘く、想いの内を告げる声。
違う。
あれは夢だ。あの言葉は。
夢だ。俺の都合のいい夢。
だってそれは俺じゃない。俺のはずが無い。
つうっと頬を伝わり落ちるものを感じてヒカルは自分自身に驚いた。
なぜ。
何が悲しくて俺は。
(7)
その時、混乱と嘆きを宥めるように、そっと頬に触れるものがあってヒカルは顔を上げた。春風が
枝を揺らし、しなやかな枝先の緑の若葉がさやさやとそよぎながら、ヒカルの頬を撫でたのだった。
もうとうに花も散ってしまった樹を見上げてヒカルは思う。
どうしてもっと早くここに来なかったんだろう。
きっと一月前にここに来ていれば、この枝垂桜も満開だったろうに。
かつては人の声で賑わっていたこの屋敷の、住む人の目を喜ばせたこの花は、今年は誰にも
見られることなくひっそりと咲いて、散っていったのだろうか。誰からも忘れ去られて。
他所で桜を見た時に、やはりこの屋敷のこの樹を思い出した。けれど、花が咲いても主のいない
その風景を思い起こす事さえつらくて、足を運べなかった。もっと早くここに来ればよかった。
「近衛…」
急に後ろから声をかけられて、はっとして無防備に振り返る。
「…泣いていたの…?」
驚いたように言うアキラに、ヒカルはぶんぶんと頭を振った。
泣いてなんかいない。そう言いたかった。
それなのに止まったはずの涙が、また溢れ出してしまった。何が悲しいのかわからない。けれど、
なにかがとても悲しくて。
「一月前に、やはりここに来た時に、」
ヒカルは驚いて彼を振り返った。
「ちょうど満開で……とても綺麗だった。月明かりにぼうっと花が霞んでね、」
夢見るようにうっとりと、彼は呟いた。
「風に枝が揺れて、花びらがひらひらと舞い落ちて、」
その風景を思い出すように彼は目を細めた。
「杯に花びらが落ちて、」
(8)
そしてヒカルを見て、慰めるように、言い聞かせるように、言う。
「…また春が巡ってくれば、きっと同じように花をつける。そうしたら今度は…」
今度は君とこの桜を見に来れるといいね。だって一人で見る桜はやはりどこか淋しいもの。
そう思いながらアキラはヒカルに微笑みかけ、そしてもう一度、樹を見上げた。
また春がくれば、桜はきっと咲くだろう。見る人がいても、いなくても。
例えば、人も踏み入らぬ深い山の奥の、誰もその存在さえ知らぬ老木でも、寿命のある限り、春が
くれば花をつけるだろう。誰も見ていなくても花は咲く。花は咲く意味など考えない。この世にこうして
在る事の意味も、在るべきか在らざるべきか、その事の是非も、花は問わない。意味も是非も、
そんなものは必要ないからだ。
ただ、そうするしかないから、花を咲かせ、若葉を芽吹かせ、夏になれば生い茂り、秋にはまた葉を
落とす。そうやって誰も何も知らなくても、季節は巡っていく。
目の前に揺れる枝を手に取り、彼は若葉にそっと口付けた。
――綺麗だなあ。
夢見るような眼差しで樹を見上げ、それからそっと枝を取り口元へと持っていった彼を見て、ヒカル
は気付かれないように息をついた。
さっき、藤棚の下にいたこいつを見たときにも思ったけど。
賀茂って綺麗なんだ。
気が付かなかった。
どうして今まで気が付かなかったんだろう。
「近衛?」
優しい声で己の名を呼ぶ彼を見て、ヒカルはざわざわと胸がざわめくのを感じた。
この静かな眼差しが、熱く自分を見つめた事があった。
すらりと伸びたしなやかな身体は、熱く激しく自分を抱きしめた事があった。
脅し、強請り、半ば強引に彼を奪った。
なぜそんな事ができたのか、今思うとそんな自分を恐ろしく思う。
それでも尚、彼は静謐な佇まいを欠片も失ってはいない。
そして今は、こんなにも間近にありながら、もはや彼は自分に指一本触れようとはしない。
(9)
触れて欲しいのか、俺は。
あれだけ貪っておきながら、それでもまだ足らずに彼の熱が欲しいと思うのか。
一度でいい。そう言ったのは自分ではなかったか。
今、こうして自分を見ている静かな瞳は、けれど自分のものではなく、誰か、自分の知らないひとの
ためのもの。普段の彼からは想像もつかない熱く力強い腕は自分ではない他の誰かを抱きしめる
ためのもの。
だから一度でいい。それ以上は望まない。そう自分に言い聞かせた筈だったのに。
涙が滲んで、彼の姿が朧に霞んだ。
衝動的に彼の衣の袖を引き、彼の肩に頭を落とした。
頭上で彼が息を飲んだのがわかった。
彼の身体が強張るのを感じていながら、ヒカルは彼の袖をぎゅっと握り締めて離さなかった。
離したくなかった。
「佐為…」
呪文のように、逝ってしまった人の名を呼ぶ。
混乱する心を、揺れる心を静めて欲しいと、助けを求めるように大好きだったあの人の名を呼ぶ。
助けてよ、佐為。
俺は俺がどうしたいのかわからないんだ。
何が悲しいかもわからないのに、涙を止めたいのに、止められないんだ。
教えてくれよ、佐為。助けてくれよ。
俺は自分が何が欲しくて何がしたいのか、わからないんだ。
教えてくれよ、応えてくれよ。佐為。
なあ。応えてくれよ。
なあ。どうして何にも言ってくれないんだよ。
どうして逝っちゃったんだよ。
どうしてなんだよ、佐為。
(10)
佐為。
優しかった佐為。綺麗だった佐為。大好きだった佐為。
おまえがいないから、俺はこんなに苦しい。
おまえさえいてくれれば、こんな思いで苦しむ事は無かった筈なんだ。
おまえがいれば、おまえさえいてくれれば、それで俺には充分だった筈なんだ。
おまえがいないから、おまえが俺の横で笑ってくれないから、だから俺は、目の前にいる優しい
こいつに縋ってしまいそうになる。
苦しくて苦しくて、己の内に立てた誓いを破ってしまいそうになる。
一度きりと誓ったはずなのに。
また、彼を求めてしまいそうだ。
俺のものではないこの眼差しを、この熱い身体を、もう一度求めてしまいそうだ。
佐為。
俺の佐為。
おまえがいないから。
おまえさえいてくれれば、それで充分だったはずなのに。
いつから俺はこんな弱くなってしまったんだ。一人で立っていることも出来ないほどに。
おまえがいないからいけないんだ。
おまえが俺を置いて一人で逝ってしまうから。
縋るように袖を握り締め、涙をこぼすヒカルの背を、彼の手が宥めるようにそっと撫でた。
そんなに優しくしないでくれ。
いっそ俺を叱り付けてくれ。子供のようにいつまでも泣いているなと叱り飛ばしてくれ。
優しくされればされるだけ、涙は止まらずにまた溢れ出てしまう。
顔を上げ、訴えかけるように彼の顔を覗きあげる。
見上げた先の黒い瞳が、自分の視線を受けて揺れ惑う。
その惑いが、なぜだかとても苦しかった。
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