再生 6 - 10
(6)
ヒカルは、アキラのアパートに行ってみた。
謝る必要はないと思う。アキラだってきっと自分からは折れない。
でも、顔を見せるだけ…それだけで、仲直りできるはずだ。いつもと同じ。
アキラは温厚なように見えるが、ヒカルに対しては結構我が儘だ。
それはヒカルに気を許している証拠―――――
だけど、こんなケンカは全然楽しくない。
呼び鈴を押したが返事はなかった。
リュックの中から合い鍵を取り出した。
アキラがヒカルにくれたものだが、まだ一度も使ったことがない。
鍵を差し込もうとして、手が止まった。
何だかドキドキする。
アキラの城に自分だけが、自由に出入りを許されている。
アキラにとって、自分は特別なのだ…。
そう思うと何だか――胸の奥が、何とも言えないポワポワした優しいもので一杯になった。
「塔矢だって…特別だよ…」小さな独り言。自分の言葉に赤くなった。
深呼吸して、もう一度鍵を差して回した。
小さく鍵のはずれる音がした。
そっと、ドアを開けて中に入った。
几帳面なアキラらしく、いつも奇麗に片付けられた部屋だ。
本棚から、詰碁集を一冊取り出しページを開いた。
アキラが何度も読み返したらしく、ページがすり切れていた。
この本を片手に、碁盤に向かうアキラの姿が目に浮かぶ。
自然と口元に笑みがこぼれた。
大きめのクッションを壁際に持ってきた。
床に座って、本格的に読み始める。
「遅いな…。」
何度も時計を確かめた。
一人っきりの部屋の中、秒針の刻む音がやけに大きく響いた。
アキラを待っている内に眠り込んでしまったらしい。
ヒカルが目を覚ました時、アキラが横に座っていた。
どうやらアキラに膝枕をして貰っていたようだ。
「と…塔矢…!オレ…」
慌てて飛び起きようとして、アキラに押し止められた。
ゆっくりとアキラの顔が近づいた。
(7)
アキラがアパートに戻った時、部屋の灯りがついていた。
『まさか』と思って慌てて、部屋の中に飛び込んだ。
自分が一番会いたい人物がそこにいた。
壁にもたれかかっていた。手元に本が落ちている。
待ちくたびれて眠ってしまったのか…。
もう、日付が変わっていた。
もっと早く帰れば良かった。
一人のアパートに帰りたくなくて、寄り道したのがいけなかった。
ヒカルの明るい前髪を梳いた。
不揃いな長い睫毛が、かすかに震えた。
「んん…」
起こしそうになって、ハッと手を引っ込めた。
ヒカルの横に自分も腰を下ろした。
ヒカルの柔らかい寝息が聞こえる。
それだけでもう安心している自分がいた。
ヒカルがアキラの肩に凭れかかってきた。
そのままゆっくりと胸をすぎ、膝に倒れてきた。
ヒカルは目を覚まさない。
アキラが感じているのと同じように、ヒカルも感じているのだ。
自分の側で、ヒカルが安らいでいる。
それだけで涙が出そうだ。
どれくらい時間がたったのか、ヒカルが目を覚ました。
アキラは、顔を上げて何かを言おうとするヒカルの唇を塞いだ。
(8)
アキラがヒカルに覆い被さってきた。
アキラの唇が、顔や首筋、至る所に触れては離れていく。
儀式の様に、何度も繰り返された行為。
ヒカルはアキラの背中に腕を回した。
アキラの手がヒカルのシャツの下に滑り込んだ。
「と…塔矢…」
ヒカルは喘いだ。
なれた仕草で、アキラはヒカルの服を剥いで行く。
アキラが胸の突起に舌を這わせた。
「あぁん…と…や…」
アキラの手によって、ヒカル自身が反応し始めた。
アキラは、いつも優しくヒカルを抱いた。
それでも、アキラが中に入ってくる時、ヒカルは少し怖じ気づいてしまう。
その後には、頭が真っ白になるくらいの快感が待っているのに…。
息を詰めてその瞬間を待った。
「力を抜いて…進藤」
アキラが囁くように言った。わかっている。わかっているんだけど…。
アキラがヒカルの脇腹を撫でた。
「…!」
ヒカルの体から力が抜けた瞬間、アキラが入ってきた。
「あ…んんん…はぁ…」
ヒカルの唇から甘い声が漏れる。
「進藤…好きだ」
アキラが呟く。いつもそうだ。何度も何度も繰り返した。
何度言っても、言い足りないかのようだ。
「オレも…好き」
ヒカルも同じように繰り返した。
(9)
ヒカルが、子犬のように濡れた瞳でアキラを見つめた。
先ほどの余韻が、体のあちこちに残っている。
息もまだ荒い。
「進藤…好きだよ。」
もう一度、囁いた。
「オレも…」
ヒカルが応えた。
アキラは「好きだ」という言葉の裏で、「好きか?」とヒカルに問いかけている。
ヒカルはそれを知っているのだろうか?
ヒカルも、同じように問いかけているのだろうか?
もっとヒカルを知りたい…。今よりもっと…。
「今日、待っていてくれて嬉しかった。」
本当に嬉しかった。
よくある喩えだが、砂漠で水を貰ったような気持ちだ。
ヒカルに言ったら、大げさだと笑われた。
自分でも少しそう思ったので、一緒に笑った。
久しぶりに聞いたヒカルの快活な笑い声が、耳に心地よかった。
「オレ…今日…合い鍵使う時、なんかドキドキした…」
ヒカルがはにかんで言った。
「どうして?」
「オレ、塔矢に特別だと思ってもらえてるんだって…」
「いつも…使おうと思っていたんだけど…もったいなくて…」
驚いた。確かにヒカルは自分にとっては特別な相手だ。
誰とも比べられないくらい別格の存在だ。
だから、合い鍵を渡した。
でも、ヒカルが自分以上に、合い鍵に特別な思い入れがあったとは思わなかった。
ふと、緒方の部屋の合い鍵のことを思い出した。
緒方に鍵を渡された時、何となく受け取った。
あの鍵を使う時も、特別な感慨はなかった。
緒方さんは、どんな気持ちであの鍵をボクに渡したのだろうか…?
(10)
ぼんやりと明るい水槽。水草が微かに揺らめいている。
静かな部屋の中に、エアーポンプの音が低く響いた。
少しずつ餌を水の中に落としていく。
鮮やかな色が、目の前をゆっくりと横切った。
水槽を眺めてはいたが、実際はただ網膜に映っているだけで
それを意識して見ていたわけではなかった。
様々な想いが、エアーポンプが作り出す泡のように、浮かんでは消えた。
アキラのこと…ヒカルのこと…そして……。
思考を遮るように、インターフォンが鳴った。
珍しい、この家に客が来るなんて…。
以前はアキラがよく来ていたが、あれ以来訪ねて来たことはない。
「進藤…」
慌てて玄関のドアを開けた。
小柄な少年が立っていた。
「ごめん、先生。突然来て。忙しい?」
前髪を掻き上げながら、ヒカルが言った。
走ってきたのか、鼻の頭に小さく汗をかいている。
「いや…暇を持て余していたところだ。」
自然と笑顔になった。
もしかして、自分は誰かを待っていたのだろうか…?
緒方は、ヒカルを部屋へ招き入れながらそう思った。
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