失楽園 6 - 10


(6)
「やっぱすげぇ強いや、緒方先生」
ヒカルはポテトを咀嚼しながら緒方を絶賛した。緒方は流石に強い。間髪入れずに打ち出される
一手一手は、まるでそこに置くことが昔から決まっていたかのように迷いが無く、そして正しい。
手のひらで遊ばせて貰っているような不思議な感覚をヒカルは夢中になって追いかけた。
「オレを誰だと思ってるんだ。それにしても、こんなところで良かったのか? オレとしては、もっと
いいところに連れて行くはずだったんだがな」
緒方は肩を竦めて周囲を見回した。学生たちが多いハンバーガーショップで、白いスーツに身を
固めた緒方はいろんな意味で浮いていた。しかし、緒方にはまるで気にした様子がない。
「いいんだ。この間新しいのが出てさ〜、オレ、まだ食ってなかったんだもん」
「まぁ、オマエが満足してるんだったら別にいいが」
緒方は苦笑して手元のハンバーガーの紙を破いた。きちんと袋は一方が開いている作りになっている
のに、緒方のそれはおかしなところから姿を覗かせている。その手つきに、緒方がファストフードを
食べなれていないらしいことが判った。
「こんなのでホントに腹が膨れるのか?」
「大丈夫だよ、帰ったら飯食うし」
ヒカルはコーラを一口飲んで口の中に残っていたポテトの味を消すと、ハンバーガーに手を伸ばした。
「先生、これさ、ここから簡単に開くの。知らなかった?」
ヒカルがニヤリと笑って包み紙からチーズバーガーを取り出して見せると、緒方の目が僅かに見開か
れた。そして明らかに気分を害したように眉根を寄せる。
「……………仕方ないだろう」
「ハハハ、先生って全然こんなとこに入ったりしないんだな。……ね、塔矢とも入らないの?」
幾分躊躇って、ヒカルはその名前を口にした。
2人の間に和やかに流れていた空気がピシリと凍った。


(7)
「ああ。……アキラくんは、こういう油っこいものをあまり食べたがらないからな。食の細い子だし」
緒方は無表情にテーブルに肘をついてコーヒーを呷る。
「――ねぇ、先生。塔矢とのことを聞いていい?」
破れた紙に包まれたハンバーガーを口元まで持って行った緒方は、控えめなヒカルの申し出を受け
容れた。
「内容にもよるがな」
吐き捨てるように呟いて一口齧ると、『フン、食えないほどではないな』と続けた。
「先生はやっぱり、塔矢と……?」
2人の間を流れている親密な空気を、緒方は隠そうとはしていない。寧ろそれをヒカルに知らしめ、
ヒカルの反応を見て楽しんでいるような気すらしていた。
……だから、核心に触れて訊いてもいい。ヒカルはそう判断した。
「――ああ、寝てるよ」
何ともないことのように告げられ、コーラが入った紙コップを掴む手に力が入る。
アキラとの一夜を思い出すだけで、ヒカルの胸はざわついた。アキラに胸を舐められ、下着の中の
ものを握りしめられ、挙げ句の果てには自分でも触ったことのないような場所を暴かれた。気にし
ないでいられる方が嘘だ。
しかし、インモラルなことであるのが判る以上、口外するのは憚られる。ヒカルが逆に緒方に問われた
としても、緒方のようにあっさりとそのことを認められそうにはなかった。
「アイツのこと、好きなの?」
「好き?」


(8)
緒方は驚いたように目を見開いた。どうしてそんなことをわざわざ尋ねられるのか判らないと言い
たげな表情に、ヒカルは唇を噛んだ。
「好きじゃなきゃ、そういうことできないだろ!?」
「まぁな、確かに嫌いじゃできないな。ん? ――ピクルスか。食うか?」
顔を顰め、ピクルスが苦手らしい緒方はハンバーガーをヒカルに押し付けくる。
「食うよ。……っつーか、逸らかさないでオレの質問に答えてくれよ……っわ」
ハンバーガーが宙を舞った。緒方の押し付けてきたハンバーガーを受け取り損ねたヒカルは、それを
取り落とすのを阻止すべく、両手で何度かバウンドさせる。
「とととと、――うわっ!」
ヒカルが情けない声を上げる。妙な方向に飛んだそれはヒカルの胸に一旦着地し、無残にもテーブル
の上で分解されて散らばった。
「……大丈夫……ではないな。悪かった」
ヒカルのシャツの胸元にべっとりと付いたケチャップと肉汁を見て、緒方はさすがに気の毒に
思ったのか、とりあえずの謝罪の言葉を口にした。
「母さんに叱られるかもな……ハハ」
「オレんとこに来るか? すぐに洗えば大丈夫だ」
緒方は立ち上がると、店員を呼んでテーブルの上のものを片づけさせる。ポテトを持って帰るか
どうか訊かれたが、ヒカルは首を振った。
ハンバーガーを押し付けられた辺りに、緒方の故意が働いたような気がしてならない。受け取り損ねた
とヒカルは判断したが、放り投げられた感がしないでもなかったからだ。
――まさかな。
ヒカルは心の中で否定する。ドアに向かって真っ直ぐに歩く白いスーツの背中を追いかけ、ヒカルは
外へと飛び出した。 


(9)
「うぇ、ハラもベタベタだよ〜」
バスルームで、なんとも情けない声を上げる。制服のワイシャツと下着代わりのTシャツを受け取り
ながら、緒方はヒカルの痩せた胸を見下ろした。
「どうせだから、シャワーも浴びてこい。使い方は判るな?」
「ウン」
「その間にちゃんと洗っといてやるから」
緒方はそっけなく言うと一度席を外し、数分も経たないうちにバスローブを手に戻ってきた。
「とりあえずこれでも着ておけ。アキラくんのだからサイズは大丈夫だ」
「――塔矢の?」
ヒカルが復唱すると、緒方はしばらく考えるような素振りを見せた。そして『貸せ』と短く言うと、
また脱衣所を出ていく。
「こっちはオレのだから、かなり大きいだろうが我慢しろ」
上半身裸のまま待っていると、ドアを開けざまにバサリと投げつけられ、ヒカルは頭からバスローブを
被る格好になった。

シャワーコックを捻ると、勢いよく湯が出てきた。シャンプーもリンスもボディシャンプーも何も
書かれていない形の違う白い陶器の入れ物に入っているらしく、ヒカルはどれがボディシャンプーなのか
わからないまま身体を洗い、ついでに髪も洗った。
温めの湯を顔に浴びながら、ヒカルは考える。
――緒方先生の家にある、塔矢のバスローブ。
自分が和谷のアパートに泊まるように、兄弟弟子の家にただ泊まりに来るという訳ではないのだろう。
その意味が解らないほど、ヒカルは子供ではなかった。


(10)
「――進藤」
 コツコツとスリガラスのドアをノックされ、ヒカルはシャワーコックを締めた。ゆらゆらと緒方の
影が見える。白と青が鮮やかだった。
「すまんが、うっかりしていて下着とズボンも洗濯機に入れてしまった。とりあえず乾燥させるが、
それまでの間――」
 緒方の影がユラユラと動く。ヒカルは苦笑してドアに背を向けた。
「いいよ。仕方ないや」
「オレのを履くか? 少し刺激的かもしれんが」
「バ………ッ!」
「ハハハ、冗談だ」
 笑いながら、緒方の影が消える。ヒカルは頭を2・3度振って水滴を飛ばし、タオルを腰に巻いて
バスルームを出た。ドアの左横にある真っ白な棚にタオルと緒方のバスローブが几帳面に畳んで置いて
あるのを発見し、ヒカルは一度も着たことがなかったバスローブを纏った。
「手の長さが……足りないや」
 明らかに緒方のそれはヒカルの華奢な体躯には大きく、袖口からは爪の先も見えない。くるりと振り
向いて、壁に備え付けてある全身が映るほど大きな鏡に映してみると、肩は落ち、丈も中途半端で
なんとも不格好だ。
「すげー似合わね〜!」
 ヒカルは鏡の中の自分を指差して爆笑し、クスクス笑いながら脱衣所を後にした。



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