とびら 第一章 6 - 10
(6)
和谷はまだ残っている缶を取り、口に含んだ。炭酸が抜けかけ、甘さがさらに感じられた。
ヒカルの肩をつかむと、そのままヒカルの唇に自分の唇を押し付けた。
「ん、んっ」
流し込まれる液体をヒカルは飲んでいく。その頬が美しい朱に染まった。
「めちゃくちゃ酒に弱いんだな、進藤……」
唇の端に垂れる雫を舐め取ってやる。熱に浮かされたようにヒカルは和谷を見つめる。
「あ、つい……」
「……じゃあ脱げよ」
素直にうなずくと、ヒカルは危うい手つきで服を脱いでいった。
その様子に和谷は目を奪われる。脱ぐ、という動作はこんなにも妖しいものなのか。
「和谷も……」
熱っぽくささやかれ、自分も慌てて脱いだ。何だか恥ずかしくて電気を消す。
するとヒカルの裸体だけが闇に混じらずくっきりと見えた。
和谷は渾身の力を込めてヒカルを抱きしめた。ヒカルも背中に腕をまわしてきた。
「あった、かいな、人は、だって」
ろれつのまわらない口調でヒカルはおかしそうに言う。
本当に温かい。いつまでもこうしていたかった。和谷はヒカルの頬に唇を寄せた。
するとヒカルは和谷の手を取り、己の胸の上へと導いた。
「しんど、う」
「さわっていいぜ、和谷……」
一気に頭に血がのぼった。和谷はヒカルにのしかかった。
(7)
舐め、吸い、噛んで、ヒカルの肌を味わう。ふと和谷はヒカルの耳元に鼻を寄せた。
「おまえ、洗濯物の匂いがするな」
その言葉は耳に届いていないようで、ヒカルはただ息を弾ませている。
独り言のように和谷は話し続ける。
「違う。そうだ、陽の匂いか……」
天気のいい日に干した洗濯物は、乾いた心地よい匂いがする。それと一緒の匂いがした。
「俺、この匂い、好きだ……」
自分の腹部にあたるヒカルのペニスを和谷はしごいた。
「あっ、あっ、はぁ、くぅっ……」
あっけなくヒカルは和谷の手の中で達した。
しばらく息をついていたが、やがてすまなさそうな顔になった。
「和谷ごめん……手、よごしちゃった……」
「いや、別にいいさ」
粘り気のある液体が和谷の手の内から垂れる。しかし和谷はそれが汚いとは思えなかった。
ヒカルが放ったものだからか。
「……オレがきれいにするよ」
「おい、進藤っ」
前かがみになったヒカルが、和谷の手をぺろりと舐めた。背筋を何かが走りぬける。
ヒカルは和谷の指、手のひら、腕に舌を這わせた。
和谷の股間が痛いほど張りつめだした。それに気付いたのか、ヒカルの頭が下がった。
「わ! おい。やめろって! あぁっ」
ねっとりした口内にペニスが消えた。噛みこむように舐め上げられる。
「う、わぁっ……」
舐めまわす淫らな音が衝撃をともなって下半身から這いのぼってくる。
身体が焼けるように熱い。何も考えられない。
「はっあ、ぁあーっ」
音を立てて吸い上げられ、熱は飛沫を上げてヒカルの口内にほとばしった。
ヒカルは和谷の放ったものを音を立てて飲んでいった。
(8)
息を吐き、和谷はヒカルを抱えて横たわった。けだるさが身体に残る。
和谷は唇をかみしめた。ヒカルの手――実際には口だったが――によって簡単にイカされた
ことがたまらなく情けなかった。
ふとヒカルの様子が気になった。顔を思い切りしかめている。
「どうしたんだ、進藤」
「……まじぃ……何か飲み物くれよ」
和谷は言われるままにペットボトルをとった。
渡そうとするが、ヒカルは寝転がったまま動こうとしない。
その瞳の意味することを読み取り、和谷は頬を赤らめた。
こいつは意識的に誘っているのだろうか、と思う。
無意識ならばこれほど恐ろしいものはない。あでやかに微笑みながら、心をつかまえる。
逃れられない、と思った。和谷は二度目の口移しをした。美味しそうにヒカルは飲む。
和谷は与え終わってもヒカルから離れず、その口の中を舌でかき回した。少し苦かった。
もう一度、ヒカルのもだえる姿が見たくなった。
すぐにその思考は下半身に直結する。和谷は再びヒカルの乳首を弄ろうとした。
そして気付いた。ヒカルがあどけない顔をしてぐっすり眠っていることに。
和谷は脱力した。
「そりゃないだろう、進藤っ! 俺、また勃っちまったのに! どうしろってんだよ!」
その叫びは虚しく薄い壁に吸い込まれていった。和谷はがっくりとうなだれた。
(9)
明るい光が部屋の中を射し、和谷は目を覚ました。身体が軽かった。
昨夜見た夢を思い出し、一人顔を赤らめる。
「すごい夢見たよなあ……」
まさか自分が進藤とあんなことをするなんて、と口の中でつぶやく。
まあ夢なのだが、と言い聞かせる。背伸びをして、起き上がって驚いた。
「なんで服、着てないんだ? わあ!」
自分の横に、同じく裸のヒカルが眠っていた。混乱する頭で考える。
そうだ、夢ではない。現実のことなのだ。一瞬にして昨夜の出来事が脳裏によみがえった。
中でもヒカルとイロイロしたことが和谷を動揺させ、落胆させた。
ヒカルが寝てしまった後、和谷は自分で自分を慰めた。
そして布団を敷き、ヒカルをそこに転がすと自分ももぐりこみ、複雑な思いで目を閉じたのだ。
「……ん……」
ヒカルが身じろぎし、続いて目を開いた。焦点の定まらない目で、和谷を見つめる。
「うわあああ!」
いきなりヒカルは飛び起きた。そして己の身体を見た。
歯形や赤いあざがついているのを見て、和谷以上に動揺している。
「……落ち着け、進藤。まずは服を着て、飯を食おう」
沈黙の中、二人は散らばった衣服を身に着け、もそもそと残っていた食べ物を口に運んだ。
味がしない。飲み込むのも一苦労だった。
和谷は手を止めた。ヒカルがどう思っているのか気になった。
雰囲気に流されたとはいえ、男の自分とあんなことをしたのだ。気にしないはずがない。
もしかしたら自分のことを嫌悪しているかもしれない。そう思うと胸が痛んだ。
院生時代からの仲間で、プロ棋士になり、ともに前を目指してきたのに……。
「和谷、あのさ……」
ためらいがちにヒカルが口を開いた。和谷は審判を聞く心持ちになった。
(10)
真剣な目で自分を見てくる。恐ろしかったが和谷はそらさずに見つめ返した。
「ごめん! 和谷!」
唐突にヒカルは頭を下げた。黄色の前髪が揺れる。
「オレ、あんまりよく覚えていないんだけど、その、オレが先に、その、言ったような……」
和谷は気が抜けた。どうやら怒っていないようだ。それどころか自分が悪いと言っている。
本当にヒカルにはかなわない。和谷は笑った。
「気にするなよ。謝らなきゃいけないのは俺のほうだ」
「でも!」
「いいから!」
しばらく言い合いが続き、とうとう二人は笑い出してしまった。
気持ちが軽くなっていく。昨夜のことはちょっとした遊びで片付けられるだろう。
「でも、やっぱりごめんな、和谷」
「もう言うなって。すごい気持ちよかったしさ」
自分が情けなくなったけど、という言葉は飲み込んだ。
「本当か?」
「ああ。もう一回してもいいな、って思ったぜ」
冗談めかして和谷は言った。するとヒカルの表情が変わった。
しまった。こんな台詞は良くなかった。和谷は後悔した。ヒカルが唇を動かした。
「じゃあさ、またしないか?」
その言葉の意味を理解するのにしばらくかかった。わかった後、顔が火のように熱くなった。
「何言ってんだ、おまえは!」
「え? だって和谷も気持ちよかったんだろ? ならまたしたっていいじゃん」
ヒカルの思考についていけない。こいつは何を言っているのかわかっているのだろうか。
「あのなあ、俺たち男同士だぜ? なのにあんなことするなんて変だろ?」
言い含める和谷の言葉にヒカルはきょとんとする。
「変なのか? 何で?」
聞き返されて詰まってしまった。自分は論理的に説明できる弁術など持っていない。
「男同士だから気にすることないじゃん」
無邪気にヒカルは言う。ああ、と和谷は声を漏らした。
ヒカルの性に対する透明さを見た気がした。
たぶんふざけたり、じゃれあったりするのと大差ないと思っているのだろう。
ここで先輩として教え諭さなければならないのかもしれない。
だが自分は目のまえの甘い誘惑をがまんすることなどできない。
「そうだな……」
ぱっとヒカルは笑顔になった。和谷の胸のうちに何かが込み上げる。
ヒカルは身軽に立ち上がると、リュックを肩にかけた。
「じゃ、オレ帰るよ。ホントは昨日帰るつもりだったから心配しているだろうし。またな」
ドアを開けると光が入ってきて、和谷は目を閉じた。
次に開いたときには、ヒカルの姿はなかった。まるで光の中に溶け込んだように思えた。
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