とびら 第三章 6 - 10


(6)
アキラは書類を渡すために棋院へおもむいた。
森下九段の研究会と重なっている。もしかしたらヒカルと会えるかもしれない。
そう期待していたアキラは、いきなりトイレへと引きずり込まれた。
引っ張った相手はやはり来るであろうと思っていた人物であった。
「何の用だ、和谷」
「わかってるくせに、わざとらしいんだよ」
もちろんヒカルのことなのだとわかっている。
ヒカルを抱くのは土曜日だった。その前日に和谷が抱いていることをアキラは知っていた。
そして研究会のある日、つまり火曜日もアキラはヒカルと会っていた。
その翌日、和谷の家にヒカルが行くのももちろん知っている。
見せつけるようにアキラはわざとヒカルの肌に愛撫の跡を残し、また見せつけるように
違う跡が返ってきた。
まるでヒカルの身体の上で和谷とアキラはけんかをしているようだった。
「おまえ、進藤を抱いているんだろう」
「ああ。今日も彼の家に行く。別にセックスはしないけどね」
平日はヒカルの身体や対局に影響が出ないようにアキラはただ肌を重ねるだけにした。
どうやらそれは和谷も同じらしいことがわかっている。
「おまえ進藤をヤッておいて、よく親御さんと顔あわせられるな。この恥知らず」
「それだけの覚悟をしているから、きみと違ってね。彼の部屋で、彼を抱くんだ」
アキラは凄んでくる和谷の目を正面から受けとめた。
前のような無様な負け方をする気は毛頭なかった。
「いったい何て進藤に言ったんだ。おどしているのか」
「まさかそんなことをするわけないだろう。彼の意思だ」
取り引きのことを教える必要などないのでアキラは言わない。
「そんなはずあるもんか!」
和谷は激昂した。だがアキラは何でもないような顔をした。
しかしその心は嵐のように荒れていた。
自分はいまだにヒカルから、「したい」とは言ってもらっていない。抱けば反応があるし、
そう嫌がっているわけでもないようだが、やはりヒカル自ら求めて来てほしかった。
和谷には自分から抱いてほしいと言っているのだろうか。暗い気持ちで考える。


(7)
触れれば裂けそうなほど、二人の周りの空気は張り詰めていた。
「……進藤はおまえを選んだわけじゃないぞ。おまえを選んでいるなら、俺に抱かれる
 はずないからな」
「きみも選ばれているわけではないことを忘れるな」
アキラはすぐに言い返す。そして笑顔で付け加えた。
「進藤の身体ってすごいよね。見かけは華奢だけど、意外と丈夫で、しかもしなやかな
肢体だから多少は無理しても受け止めてくれる」
言いながらアキラは指先を見た。
碁を打つだけだったこの指は、今ではどこをどう触ればヒカルが反応するかを知っている。
身体の芯が熱くなってくる。
和谷は頭にきたように語気を強めた。
「おまえは平気なのか。自分の好きなヤツが他のヤツに抱かれるのが!」
アキラは微笑んだ。
「進藤がそうしたいなら、仕方がない」
「……ものわかりの良いことで」
吐き捨てるように言い、和谷は背を向けた。
もっと何か言ってくる、もしくはされるかと身構えていたので拍子抜けした。
別に和谷に認めてもらいたいなどとは露ほども思っていないが、同じヒカルを想う者、
そんなに悪い人ではないのかもしれない、とアキラは思った。

アキラのその考えはその夜、見事にくつがえされることとなる。


(8)
アキラはちらりと時計を見た。もう九時をまわっている。
ヒカルの母親が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「ごめんなさいね。うちの子、何をしているのかしら。あ、おかわりはいかが?」
「いえ、もうけっこうです。ごちそうさまでした」
今日のメニューは豚の生姜焼きだった。家の味とは違うがおいしかった。
ヒカルの家では洋食が多いようだが、アキラが来る日は和食になっている。
気を遣わせてすまないなと思う。
「もうしばらく待ってもいいですか?」
「どうせなら泊まってくれてもかまわないわよ」
火曜日は泊まらないことにしているので、夕食も遠慮することが多い。
だが今日は妙な胸騒ぎがあったので、こうしてここにいることにしたのだ。
「すみません。お言葉に甘えて泊まらせていただきます」
快く承諾された。アキラは風呂に入り、寝巻きに着替えた。
泊まるようになってから、自分の衣服を少しヒカルの部屋に置かせてもらっている。
布団を敷き、その上に座り込んでベッドを見た。ヒカルはまだ帰ってこない。
(研究会が終わるまで待っていれば良かったな……)
寝転んだアキラは胃のあたりをさすった。夜遅くにご飯を食べると身体の調子が悪くなる。
それがわかっていたが、アキラはヒカルと一緒に食べたくて待ったのだ。
時計の音がいやに耳につく。
「塔矢くん、お母さんからお電話よ」
呼びかけられ、アキラはドアを開けた。ヒカルの母親は自分がいると決して勝手に入って
こようとはしなかった。それはとてもありがたいことだった。
「はい、今日は泊まります。はい、わかっています。はい」
受話器を置いた瞬間、また鳴った。反射的にとってしまった。
「――はい」
『進藤さんのお宅でしょうか』
聞き覚えのある声だった。アキラは眉宇をひそめた。
「……どちらさまでしょうか」
相手が息をのむのがわかった。
『その声は塔矢か』
「そういうきみは和谷か」
アキラはこんなに近くに聞こえる和谷の声が不愉快でたまらなかった。
「どうしてかけてきたんだ」
『進藤は帰らないと親御さんに伝えようと思ったんだけど……ちょうどいいや。
おい、進藤』
『ああ――! わやぁ……早くきてくれよぉっ……』
ヒカルの声が耳に飛び込んできた。
『進藤、俺のが欲しいか?』
『ん、ほしいっ……もう、がまんできない……っ』
湿った音が響いてくる。続いて耳をつんざくような悲鳴。
『ああっ! あ、あ、あ……っ! もっとぉ、わやぁ! あぁん!』
ヒカルの嬌声が伝わってくる。アキラは青ざめた。いったい何なのだ。
和谷にヒカルが抱かれているということよりも、その尋常ではない様子が気にかかった。
ヒカルを何度も抱いたことのある自分だからわかる。明らかにおかしい。
「何を、した……」
『別に。進藤をよがらせているだけだ』
『もっと突いてぇっ、ああっ……!』
アキラははっとした。もしかしてヒカルに薬を大量に飲ませたのではないだろうか。
そして聞こえてくる声の調子からそれは確信に変わった。
「キサマ……!」
『怒ってんのかよ、若センセイ。怒りたいのはこっちだぜ。コイツに俺の知らないクセ
つけやがって! おまえも塔矢なんかに抱かれやがって!』
張りたおす音とともに、ヒカルのうめき声が耳に入ってくる。
「進藤!」
『おまえは俺のものだ!』
荒々しい声がアキラの中に鉛のように沈んでくる。
『んん、わやぁ……っ』
『ホント、若センセイの言うとおり、コイツ無理しても全然平気だよな。どころか反対に
 こんなになっちゃってまあ。教えてくれてアリガトな』
ぶつっ、と電話が切れた。受話器を持つ手が震えていた。


(9)
玄関の電話の前にたたずんでいたアキラに声がかけられた。
「塔矢くん? どうしたの?」
「え、いえ……あ、電話があって、進藤くんは今日、和谷くんのところに泊まるそうです」
「まあ! あの子ったら、塔矢くんを待たせておいてっ」
「いいんです。あの、疲れたので休ませてもらいます」
アキラは階段で崩れ折れそうになる足を叱咤した。
部屋に入り、ようやくうずくまった。身体がすっかり冷えていた。
「和谷……!」
ヒカルをあんなふうに扱うのは許せなかった。
「きみは進藤が好きだったんじゃないのか!? それなのに……!」
アキラは力まかせにこぶしで布団を叩いた。呪うような言葉が口から漏れる。
しかしそれはやがて消えていった。アキラはぼんやりと、誰もいない部屋を見た。
本当は和谷の気持ちが痛いほどわかっていた。なぜなら自分にも同じ気持ちがあるからだ。
そう、同じなのだ。
アキラはそっと自分のペニスへと手をやった。
「ふっ、進藤っ……」
和谷に犯されているヒカルを想像しながら上下にしごく。
自分は汚く、醜い。卑小でどうしようもない人間だ。
アキラは和谷をうらやましく思っている自分を認めた。
あんなふうに抱きたいのは自分も同じだ。和谷はもう一つの自分の姿でもあった。
己の浅ましさに涙が出てくる。何もかもがどうでも良くなってきた。
もう一方の手で乳首を弄る。ヒカルの匂いが残る部屋で、アキラは自慰をした。
思い浮かべるのはヒカルの痴態。
もう二度とヒカルに会えない気がした。
唯一無二などとほざきながら、結局自分も肉体に溺れていただけなのかもしれない。
本当に呆れてしまう。喘ぐ声のあいだに嘲りの笑いが混じる。
あきらめてしまえば、楽になる。
「はぁっ……進藤……!」
手の中へと虚しく己の性を放った。その液体を見て、アキラはヒカルを想った。
本当ならヒカルの口か、その胸へと放たれるはずだった。
その思考自体にうんざりした。


(10)
しばらくしてから起き上がると、アキラはティッシュで手をぬぐった。
「……そう、あきらめたらすべて終わりだ」
自分に言い聞かせる。気が少し済んだせいか、アキラは自分を取り戻しつつあった。
アキラは打たれ強かった。かつてヒカルによって大きな壁を思い知らされたときも、それ
を越えようと決心することができた。
「たとえ僕が最低であっても、譲れないものはある」
自分の好きな人が他の人に抱かれていても平気なのか、と問われたときアキラは
はぐらかしたが、本当は平気であるわけないだろうと怒鳴りたかった。
もしアキラが棋譜を楯に、和谷ともうするなと言えばヒカルは承諾したかもしれない。
だがそれではいやだった。ヒカル自ら断ち切って欲しかった。
だから我慢した。今は腕の中にいてくれるだけでいいと自分を納得させた。
しかしときおり、無性にヒカルを痛めつけたくなる自分がいたのはたしかだ。
その姿を他の者にもさらしているのかと思うと、ヒカルがすごく憎くなった。
それでもその感情を抑えたのは、ヒカルが愛しかったからだ。
何より、ヒカルの瞳の奥に深い悲しみが宿っているのを知っていたからだ。
それを消してあげられるとは思わない。けれど寄り添うことができたらと思ったのだ。
「進藤……」
今すぐヒカルのもとへ行きたかった。だが会いたくない気持ちもあった。
和谷の声が頭の中でこだまする。
自分が余計な挑発をしなければ、ヒカルはあんな目に合わずにすんだのに。
いや、それとも遅かれ早かれそうなっていたのか。
「くそっ!」
アキラは立ち上がった。自分を責めても始まらない。
いつものようにがむしゃらにヒカルを追いかけようと決意した。
アキラは上着を羽織るとそっとヒカルの家を出た。



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