とびら 第六章 6 - 10
(6)
大きく息を吸う。トイレ特有の臭気が鼻をついた。
和谷は軽率な行動をしてしまったことを反省していた。
幸いにもトイレには誰も入ってこなかった。
衣服を正した二人の雰囲気は情事後のけだるさがあった。だがどこかよそよそしい。
「……和谷はオレのこと、嫌いになった?」
その言葉に和谷は目を見開いた。
「なんでそう思うんだよっ。そんなわけないだろ!」
「だって今日の和谷、ちょっと……」
そこで口をつぐんでしまったが、ヒカルの言いたいことはわかった。今日の自分はヒカルを
優しく抱くことができなかった。
「ごめん、ちょっとタガが外れたんだ」
あやまりながらヒカルを抱きしめて、その背が伸びたことに気付く。
ヒカルはどんどん成長している。身体だけでなく、その碁も。
――――もう自分は勝てない。
(師匠はそんな弱気なんて持つなって言うけど、俺は本当に、こいつには……)
森下だって気付いているはずだ。自分とヒカルとの差を。
不意に和谷は思った。ヒカルが棋士でなければ良かった、と。
(なに考えてんだ俺。こいつが一緒にプロになって、すごくうれしかったくせに)
腕の中のヒカルがため息をついた。
「オレ、するなら和谷んちのほうが良かったな」
「ごめん、本当にごめん! じゃあさ、今度するときはすごい豪華なホテルでしようっ」
「別にそんなとこじゃなくてもいんだぜ」
ヒカルがくすくすと笑う。和谷はヒカルが怒っていないことにほっとした。
「それにさ、ホテルなら北斗杯で泊まるじゃん」
それは暗に北斗杯の最中にしてもいいと言っているのだろうか。和谷はにやけてしまいそう
になって、慌てて表情を引き締めた。
「おまえなあ、代表にも選ばれてないのによく言えるなあ。予選は四月でまだ先だし。気が
早いんじゃないか?」
ひやかすように言う和谷に、ヒカルは真剣なまなざしを向けてきた。
(7)
和谷は居竦まれたような気がした。
「気が早い? そうかな。東京予選はもうあったし、四月なんてすぐだ。それにオレは絶対に代表に入ってみせる。メンバーになって、塔矢と同じ場所に立つんだ」
力強く、圧倒するような自信に満ちた声だった。
「進藤……」
アキラの名よりも、代表入りを果たすというヒカルの言葉に和谷は衝撃を受けていた。
前もヒカルは同じような気概を見せたことがある。その時は自分も「俺だって!」と言った。
だが今は言葉が喉の奥で固まってしまって出てこない。
森下を、伊角を、和谷は思い浮かべる。
まだ伸びると、がんばれと、そう言ってくれる人がいる。
そう自分を奮い立たせた。なのに心の奥底はよどんだままだ。
(俺は北斗杯に出たい。出られるなら、進藤と一緒でなくてもいい)
ヒカルのことは好きだ。だがそれとこれとは別だ。なぜなら自分はプロ棋士なのだから。
そこで疑問を抱く。
プロ棋士だと、どうしてヒカルへの想いが矛盾してしまうのだろうか。
ヒカルが好きでたまらないのはたしかなのに。和谷は自分の気持ちがわからなかった。
いつのまにか何かが変わってしまっている。
気持ちに時間は関係ない。ほんの刹那で、それは180度変化する。
(……俺の進藤への気持ちは変わらない。絶対に変わらない)
和谷はまるで自分に戒めるかのように、何度も心のなかで繰り返した。
「和谷? どうしたんだよ、黙っちゃってさ」
「いや、なんでもない」
「そうか。んじゃ、もう帰ろうぜ」
ヒカルの後ろ姿を見ながら、和谷はアキラを思い出していた。
アキラはどうなのだろう。自分のような思いは抱かないのだろうか。
(死ぬほど嫌いなやつのことまで考えるなんて、俺も疲れてんのかな)
そうだ疲れているのだ。和谷はほとんど無理やりそう思い込んだ。
(8)
翌日の手合いに、アキラが来た。
低段者はすでに敵ではないようで、あっさりと黒星を取っていた。
アキラの対局相手の負けました、という声がそれとわかるほど震えていた。
崩した石をつかんだまま肩を落とした姿に和谷は苛立ちを覚えた。
対局室を出て行くアキラと目が合った。対局が終わると、和谷は迷わずトイレに行った。
はたしてそこにアキラはいた。和谷を見ると軽く眉をひそめた。
自分を嫌悪していることを隠そうともしない。
(コイツと会うときはいつもトイレだな)
そう考えてげっそりした。この前ここで、自分はアキラを抱き、抱かれたのだ。
吐き気をもよおすような出来事だ。きっとアキラも同じに違いない。
「ボクはいつまでもこんな関係を続ける気はない」
いきなりアキラは切り出した。和谷は目尻を吊り上げた。
「どういうことだよ」
「はっきりさせよう。きみか、ボクかを」
「どうやってだよ。決めるのはあいつだぜ。俺たちがどうこうできる問題じゃないだろ」
和谷は声を荒げたが、アキラは落ち着いて話しつづける。
「そうやってボクたちは逃げていたんだ。はっきりさせて、進藤から見向きもされなくなる
のが嫌だから。でも、それでは前に進めない」
並々ならぬ決意がアキラから伝わってくる。今までと違う。
「……どうしたんだ、おまえ」
「ここ数日、いろいろと心境の変化があったんだよ。棋士でありつづけるためにも、決着を
つけなくてはいけないんだ」
和谷は昨日の研究会のことを思い出した。それは直感だった。
緒方との一局だ。あれがアキラを変えたのだ。
それに今日の手合いの休憩時間、ある噂を和谷は聞いていた。
対局を終えた後、緒方がアキラに向かって「おまえは俺より下だ」と言い放ったという。
あまりな発言なので、週刊碁には載せなかったらしいが。
「何よりも、いつまでもボクはきみなんかのことを意識していたくない」
ヒカルのことでそう言っているのだろうが、和谷は棋士としての自分に言われた気がした。
(9)
和谷は唇を引き結んだ。本当に塔矢アキラはいけ好かないヤツだ。
アキラは自分のことなど取るに足らないと思っているのだ。
「じゃあおまえは何を意識するんだよ」
「進藤にちらつく影だよ。きみも気付いているんだろう?」
「あいつの唯一無二ことか? けどもうそいつはこの世にいないんだぜ。言い方は悪いけど、
死んでるやつ気にしてどうすんだよ」
まったく呆れてしまう。気にするなら生きている自分にしろと文句を言ってやりたい。
「俺はこんなんでもな、進藤には必要だと言われてるんだぜ」
「きみは本当にそんな言葉を真に受けているのか?」
憐れむようにアキラが見てくる。何が言いたいのだ。
ヒカルは自分を誰かの代わりではないと、必要だと、はっきりと言ってくれた。
それを信じてどこが悪い。
「そんなことより決着をつけるだなんて、よくもまあ言えるな。勇ましいことだ。よっぽど
若センセイは自分に自信があるみたいだな」
和谷は口角をゆがめて笑みを浮かべた。それはどこかすさんだものとなった。
「自信なんて少しもないよ」
「ならどうしてそんなこと言うんだよ。すべてが終わってもいいのかよ」
「きみはどうしてそんなにも怯えるんだ。たとえ今の状態が崩れてしまったとしても、進藤
とのつながりが切れることはないのに」
「……おまえはあいつが棋士で良かったと、そう思ってるのか?」
あたりまえだろう、とアキラは言う。
アキラは前に、自分たちは棋士だからヒカルからは逃れられないと言ったことがある。
それを言うアキラはやりきれなさを漂わせていた。だが今はそれが感じられない。
苦いものが胸のなかに広がる。焦りが生まれる。
「決着って言っても、どうつけるんだよ」
渇いた唇を舐め、和谷はすごむようにアキラに聞いた。
「うん、それは――――」
アキラの言葉が和谷の耳に入ってくる。和谷は表情を強張らせた。
(10)
「そんなことできねぇよ!」
あまりな非常識な提案に和谷は叫んでいた。
「なぜ?」
しゃあしゃあと聞いてくるアキラを殴り飛ばしてやりたい。
「あいつが嫌がるに決まってるからだ!」
「そうだろうね。でもボクたちが望めば、進藤は拒絶しない。いや、できないだろう」
自分たちに罪悪感があるみたいだから、と言う。
「つけこむのかよ」
「そうだ」
本当にヒカルのことを好きなのかとアキラに問い詰めたくなった。
自分たちの関係は異常だ。それなのにさらに重ねなくてもいいではないか。
「きみはイヤなのか」
「あたりまえだろっ。おまえはイヤじゃないのかよ!?」
「もちろんイヤに決まっている」
何を当然のことをといった表情をしている。
「でもためしてみる価値はある」
「おまえ……」
アキラはすべてを壊そうとしている。和谷にはそんな勇気はなかった。
嫌なものにはふたをして、耳を、目を閉じていたかった。
(あいつに嫌われたら全部、終わっちまう)
だがふと気付く。言い出したのはアキラだ。
(俺は嫌だったって、本当はしたくなかったって、そう進藤に言えば……)
ヒカルはアキラを嫌悪するだろう。そしたら自分のところに来てくれる。
本当の意味で抱きしめることができる。アキラに勝つことができる。
和谷はつばを飲み込んだ。
「……わかった。その計画にのってやる」
自分は悪くない。アキラなど自滅すればいいのだ。
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