月明星稀 6 - 10
(6)
戸惑いと混乱を抱えたまま、ヒカルはふらふらと女房の案内のままに別部屋へ進み、しつらえられた
寝床へ身を横たえた。
けれど床に就いても、混乱はヒカルから眠りを奪ったままだった。
思いもかけなかった告白にヒカルは混乱し、困惑する。混乱のままに、逝ってしまった人の名を呼ぶ。
「さい…」
けれど目の裏に浮ぶのは花のように典雅で艶やかな微笑みではなく、柔らかで優しく穏やかな眼差し
ではなく、厳しく真っ直ぐに見つめる黒曜石の瞳。
耳に木霊するのは、「君だよ、近衛光。」と、己の名を告げる声。
唇に残る、軽く触れて離れていった柔らかな唇の感触。相も変わらず熱い身体。
思い出されるのは、懐かしいあの人でなく、彼の事ばかり。
「大好きですよ、ヒカル」と、かつて耳元で囁かれた優しい声を思い浮かべようとしても、それはつい先程
の静かな、けれど真剣な告白にかき消されて。
混乱のままに、ヒカルは逝ってしまった人を呼ぶ。
「佐為…」
けれど水面に映る人影が投げ込まれた小石によって乱されるように、その姿は揺らめいて乱れ、乱れた
と思うと次の瞬間には他の姿にすりかわり、
「どうして…どうして、佐為、」
目を瞑っても、耳を塞いでも、必死に名を呼んでも、瞼の裏に映るのはその人ではなく、戸惑いと混乱
に、ヒカルの頬を涙が伝う。
佐為……佐為、おまえが、見えない。
月が…明るくて……月があんまり明るく輝くから……星が、見えない。
見えないよ、佐為。
(7)
水音が聞こえる。
早朝の張り詰めた空気の中で、アキラが禊の水を浴びているのだ。
戸の隙間から朝の光が室内に射し込んでいる。
あの時よりも、今朝はもう随分明るい。
天井を見上げたまま、ヒカルはここで過ごした日々の、最後の夜と、その朝との事を反芻した。
ではあの言葉は夢ではなかったのか。
ではあれは自分の事だったのか。
夕べの彼の言葉は今度こそ夢ではなく現実にあったことで。
かつて聞いた、自分が夢と思いこんだ言葉もやはり現実だったのだと、やっと悟る。
とんでもない大馬鹿者だと、よっぽど鈍感な奴だと思った、それは自分の事であったのか。
成る程、とてつもなく鈍感な大馬鹿者だ。
なぜ気付きもしなかったのだろう。
それでは自分はあの言葉を、望んでいたのか、望まなかったのか。わからない。わからなくなる。
その時は確かに嬉しかった。嬉しいと感じた。それなのになぜ、夢だと思い込んでしまったのだろう。
それではまるで、嬉しいと思いながらも彼の思いを拒絶したようなものではないか?
けれど水音に呼ばれたようにヒカルは起き上がり、戸を開けて庭に降り立ち、あの日の朝のように
井戸に向かった。
(8)
爽やかな風が肌に心地良い。
近づいてきた人の気配を感じてか彼が振り返り、ヒカルを認めて小さく微笑んだ。
髪をかきあげながら水を払うように軽く頭を振ると、飛び散った雫が朝陽をうけてキラキラと光った。
背も、体格も、ほとんど変わらぬだろうと思っていたのに、こうして明るい日の光の下で見る彼の身体
は、もはや少年のそれではなく、引き締まった鋼のような痩躯が、濡れた黒髪の艶やかさが、水を弾く
肌の白さが朝陽の下で眩しくて、ヒカルは思わず目を細めた。
かつて、一度とはいえあの腕が俺を抱き、あの胸に俺は顔を埋めたのか。彼の身体は熱く、彼の腕は
力強く、自分の中に押し入ってきた彼は雄々しく逞しく、そして彼の囁きは思いだしただけで顔が火照る
ほどに熱く甘かった。
一気に蘇る記憶に、ヒカルは頬を赤らめて彼の裸身から目をそらす。
その様子に彼が小さく笑った。笑われて、ヒカルは益々顔を赤くさせた。
そのまま言葉も発さずに彼は身体を軽く拭い濡れた衣を絞って井戸を離れ、ヒカルの横をすり抜ける。
後から振り返って彼の後姿を目で追った。何か言ってくれないかと追い縋りたい気持ちを断つように、
ヒカルは井戸端へと足を進める。水を汲み上げて手を濡らすと井戸水はひんやりと冷たく、口に含む
と仄かな甘みを感じた。
(9)
いつもと変わらぬ涼やかな顔で朝餉の椀を置いたアキラに、ヒカルはぼそりと話しかけた。
「あのさ…賀茂、」
なにか?というように
「昨日の…」
もごもごと言うヒカルに、アキラはまるでなんでもない事のように応えた。
「僕が君を好きだって言った事?本当だし本気だよ。」
照らいもない真っ直ぐな物言いに、ヒカルはびくりとふるえる。
「冗談や酔狂であんな事が言えるとでも?」
けれど、身を縮こまらせたヒカルに、アキラはふっと笑って表情を弛めた。
「いや、いいよ。構わない。君が信じようと信じまいと。
ただ…言の葉に乗せてしまったことはもう取り消せない。取り消すつもりも無い。」
そう言いながら、すいとヒカルに向かって手を伸ばした。指先が頬に触れそうになってヒカルは身体を固くした。
「怯えてるの?」
半ばからかうような声でアキラが言った。
「あの時は…あんなに熱く、君のほうから求めてくれたのに?」
言われて、ヒカルの頬がかあっと赤くなる。逃げるように視線が揺れる。
そんな様子にアキラは微笑って付け加えた。
「そんなふうに怯えなくても、何もしないよ。
君の望まない事は金輪際何もしない。君の望む事以外は。」
(10)
「君が望まないのなら君には指一本触れないと誓おう。」
しかしそのアキラの宣言は逆に自分の奥の欲望を見透かされているようで、ヒカルは益々顔を赤くさせた。
「僕は君じゃないし、佐為殿でもないから、彼がどんな風に君を愛したのか、君がどんな風に彼を愛して
いたのか、その想いと僕の想いと、どこが同じでどこが違うのかはわからない。
ただ、君が好きだ。」
「ずっと、君が好きだった。」
白い指がヒカルに向かって伸ばされて、ヒカルは思わずぎゅっと目を瞑った。
けれど頬に触れるひんやりとした指先も、唇に触れる暖かな唇も、いつまでたっても降りてはこないので、
こわごわと目を開けた。
「君が望まなければ触れないと、言っただろう?」
「べっ、別に、俺は…っ」
「それはどっちの意味?僕に触れて欲しいって事?それとも触れては欲しくないという事?」
答えることが出来ずに真っ赤な顔でアキラを睨みつけるヒカルに、アキラは愛おしそうに目を細める。
「言い方が悪いね。ごめん。もう一度聞こう。君に、触れてもいい?それとも、いや?」
「いっ、いやじゃ、ない…」
必死に答えると彼の腕がすっと伸びて抱き寄せられる。
「ヒカル…」
耳元で囁くように名を呼ばれると、くらくらと眩暈がするような気がした。
「…一度でいいから君の気持ちを聞かせて。」
「ほんの少しでも、僕を好き…?」
わからない。わからないんだ。嫌いじゃない。嫌いなわけじゃない。
好きだ。好きだと思う。けれどそれを言っていい言葉なのかどうかわからない。
混乱してしまって、「好きだ」と言う言葉の意味がわからない。
「賀茂……俺…、俺、」
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