うたかた 6 - 10


(6)

 薬の力で一時的に体調が良くなったものの、ヒカルの熱は真夜中にぶり返した。
 加賀が熱い手を握ってやると、弱々しく握り返してくる。
「進藤、病院行くか?」
「びょーいん……ヤダ…っ」
「んなこと言ったって…。」
 苦しげに肩を上下させるヒカルをこれ以上見ていられなかった────というより、真っ赤な顔で潤んだ瞳をしてこちらを見上げてくるヒカルに、加賀は朝まで耐えきれる自信がなかった。
(…なんでオレがこんなガキ相手に……。)

 ヒカルのことは、中学時代から何かと気にはかけてきた。
 泣く子も黙る加賀、と3年の同級生ですら恐れる自分を、いとも簡単に呼び捨てにする後輩。しかし加賀はヒカルのそんな怖いもの無しな所が気に入っていたし、窮地に立たされたときに発揮する奇跡的な勝負強さにも興味があった。

 けれど
 ヒカルに惹かれていた本当の理由は────

「────さ…いっ…」
 ヒカルが小さく声を上げた。
「進藤?」
 意識が朦朧としているのか、口を薄く開けて何かうわごとを言っている。
「さい…っ…行っちゃやだ……っ」
 ヒカルのきつく瞑った瞳から、涙が次々と溢れる。
「進藤…?おい、しっかりしろ。」
 うなされるヒカルの頬を拭ってやりながら、加賀はヒカルの寝言の意味を考えていた。
(……サイ…?)
 聞き慣れぬ名に、加賀は自分の心が澱むのがわかった。


(7)

 ヒカルの呼吸が規則正しく聞こえてくる。どうやら峠は越したようだった。ヒカルの額と自分の額をくっつけると、まだいくらか熱い。体温計がないので正確な数値はわからなかったが、平熱でないことは断定できた。
 目の前にヒカルの顔がある。甘くて香ばしい匂いがした。
 衝動的な思いに駆られてヒカルの頬に唇を押し当てると、くすぐったそうにゆるく首を振る。その姿も加賀の瞳には扇情的に映った。
(ヤベェな……。)
 顔を離して自分のこめかみを数回軽く殴る。
(なにしてんだよ…。いったい何のために今まで我慢してきたと思ってんだ……。)

 出会ってから、ヒカルを可愛いと思うことは何度もあった。

 しかしそれは、弟と遊んでやっているときのような、小動物を愛でているときのような気持ちからだと加賀は思っていた────思うようにしていた。
(……進藤は出来の悪いオレの『後輩』だ。…それ以上の何かなんて、あるわけねえだろ。)
 何度となく呟いた言葉。それは白々しい響きを持って心の底に溜まっていった。
 無理にせき止めた感情の流れは行き場を無くし、出口を求める。

 ────いつ溢れ出るのだろう。

 限界が近付いてきているのはハッキリしていた。

 ────いつまで気持ちをごまかし続けることができる?

 火のようなヒカルの手とは対照的に、加賀は自分の手のひらが体温を失っていくのがわかった。


(8)

 ポーカーフェイスは得意中の得意だった。
 自分の気持ちに気付いていない振りをするのも。

(…未だに想い続けてるとはな。未練がましくて嫌になるぜ。)
 ヒカルが囲碁部を辞める辞めないでモメていたとき、オレンジの髪の1年生がヒカルに詰め寄っているのを見て、思わず過剰に口出しをしてしまったことがあった。

 気に入らなかった。自分以外の人間がヒカルに構うのは。

 その感情が嫉妬という名だと自覚したとき、加賀はずいぶん自分の気持ちを持て余した。
 同性であるということは冒険だったけれど、大きな問題ではなかった。加賀は今まで恋愛感情を持った相手は、どんな手段を使ってでもモノにしてきたし、そうするのが当然だと思っていた。
 けれど────
(打倒、塔矢アキラ……か。)
 加賀が自分の気持ちに薄々勘付いたとき、ヒカルは既に目標に向かってまっすぐ進んでいた。
(あんな必死な瞳で夢追われちゃあ、邪魔できねえじゃねぇかよ…。)
 加賀は、自分がヒカルに告白したら、ヒカルが混乱するのが手に取るようにわかっていた。だから、打倒塔矢アキラを目指して着々と階段を登っているヒカルの腕を掴むのはためらわれたのだ。ヒカルが大事だからこそ、余計なことを考えさせたくなかった。

 ────しょーがねえ、このまま「いい先輩」でいるのも悪くねえかもな────

 そうして加賀は、身を引くことを決心した。
 ヒカルの笑顔に心を動かされたときは必ず心の中で、女みてぇなやつだ、と毒づいた。ヒカルの手助けをするときは必ず心の中で、オレは鈍くさいヤツを見るとイライラすんだよ、と舌打ちをした。そうすることでバランスを保っていた。

 相手の気持ちなどお構いなしだった加賀が、初めて選択した道だった。

(…卒業して会わなくなったら、忘れられると思ってたんだが…。)
 深く溜息をついて、ヒカルの前髪を梳いてやる。汗で額にはりついた髪をかき上げると、赤く色付いた肌が見えた。
 …またこんな風に、ヒカルに触れる日が来るなんて思ってなかった。
(ほんとうは)
 高校生になってから、ずっと感じていた喪失感。
(本当は、ずっと会いたかったんだ…。)
 将棋部の顧問に頼まれて葉瀬中に行ったときも、もしかしたらヒカルに会えるのではないかという期待が心のどこかにあった。
(我ながら笑っちまうぜ。女々しいったらありゃしねえ…。)

 ヒカルがまだ深い眠りの中にいることを確認して、加賀はもう一度ゆっくりヒカルにくちづけた。
 今まで築き上げてきた鋼鉄の壁にヒビが入る音が、どこかで聞こえた気がした。


(9)

 加賀の何度目かのキスで、ヒカルは眠りから覚めた。けれど目を開けるのも何かを考えるのも億劫で、引き続きまどろみに身をまかせる。
 ふいに、顔に何か冷たいものが触れた。
(────…?)
 なんだろう、と思ったが、次第にどうでもよくなった。
 『冷たいもの』は頬を撫で、額を滑っていく。ひんやりした感触が心地よかった。

「………。」
 ヒカルが微笑んだ気がして、加賀は思わずヒカルの額に置いた手を浮かせた。
「…進藤?」
 静かにそう呼ぶと、返事の代わりにヒカルは少しだけ瞳を開けて、すぐまた閉じた。
(……いつから起きてたんだか。)
 少し動揺しながら、ごまかすようにヒカルの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「…何か食いたいものとかあるか?」
「…りんごのすりおろしたやつ…」
「わかった、すぐ作ってくる。」

 台所に向かいながら、加賀はヒカルが元気になることを願う一方で、ヒカルの熱がこのままずっと下がらなければいい、とも思っていた。
 風邪が治ったらヒカルは帰ってしまう。
「…放したくねえなぁ…。」
 いっそのこと軟禁してしまおうか。
 頭に浮かんだ言葉に自分で苦笑して、紅いりんごを一つ掴んだ。


(10)

 加賀がすり下ろしたりんごを持って部屋に戻ると、ヒカルは上体を起こして窓の外を見ていた。
 濡れた服はとうに脱がせていたため、布団から白い肩と胸があらわになっていて一瞬ぎくりとする。
「…ちゃんと寝とけ。まだ熱下がってねえんだからな。」
 りんごの皿をテーブルに置きながら、あくまで平静を装って声をかけたが、ヒカルは何の反応も示さなかった。
(何を見てるんだ…?)
 視線の先を追っても、夜の闇と雨で何も見えない。
「…かが」
「なんだ?」
「加賀は、大切な人を失ったら…どうやって立ち直る?」
 不意にヒカルが熱にうなされて言ったことばがよみがえる。
「……それ、サイってやつのことか?」
 何気なく言おうとしたのに、予想外に自分の声が嫉妬を含んでいて驚いた。
 佐為の名前にヒカルの大きな瞳が更に大きく見開かれる。
「…なんで…」
「いや…、お前がさっき寝言で言ってたから…」
 言い終わらないうちに、ヒカルが泣き出しそうな表情になった。
「おい、泣くなよ…。」
 加賀がベッドに腰掛けると、ヒカルは顔をそらして唇をかみしめた。
「泣いて…ないっ…」
 瞳にいっぱい涙を溜めて、布団を固く握りしめるヒカルの拳を優しく解いてやると、ヒカルは堪えきれず加賀の肩口に額を押しつけて涙をこぼした。
(サイってやつ、死んだのか…?)
 事情はさっぱりわからなかったが、ヒカルがサイをとても好きだったということと、サイが今ヒカルの傍にいないらしいということはわかった。
(…こいつをこんなに悲しませやがって…。)
 加賀は、顔も知らないその相手に苛立ちを覚えた。
 ヒカルの肩がふるえている。声を殺して泣く姿は痛々しかった。

 ────腕が、ヒカルを抱きしめたがっているのがわかった。

(…だめだ。)
 今ヒカルの素肌に触れてしまったら、きっともう自分を押さえられない。

 肩がヒカルの涙で熱く濡れてゆく。

 テーブルの上のりんごは、すっかり色が変わってしまっていた。



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