ウツクシキコト 6 - 10
(6)
「座れよ」
俺は勢いよく湯気を上げるケトルをレンジからおろすと、粉の周りから注いだ。
「俺もさ、あれから考えたけど、結局同じことの繰り返しになると思う。
この部屋借りたときはさ、正直おまえと暮らしたいと思ってた。
おまえ、一緒にいてくれるって言ったからさ、暮らしてくれると思ったしね」
ホント、あの頃が一番楽しかったな。
俺は頭悪いからさ、スゴイ物事を単純に考えてた。
塔矢先生は引退後、北京チームと契約してるから、長期に渡って家を空けることが多い。
先生不在の間、塔矢一門をまとめるのは息子の塔矢と緒方先生って感じになる。
塔矢のお母さんも、先生に同行することが多いからさ、どうしても塔矢は家を離れるわけにはいかない。
一緒に暮らせると思ってたんだ。
塔矢も、二つ返事で頷いてくれるって、信じてたんだ。
ホント、俺って馬鹿。
塔矢にそれはできないって言われてさ、俺結構不貞腐れてね。
でも、仕方ないんだよね。
塔矢には塔矢の人生があるんだから。
俺に四六時中かまっているわけにはいかないんだから。
下手にさ、期待してたから、ダメだって知ったときはスゴイがっかりした。
そんな俺を、我侭で欲張りだとか言いながら、それでも塔矢は時間が許す限りここで俺と一緒に過ごしてくれた。
一週間ぐらい泊まりっぱなしってことも、よくあった。
でも、下手に一緒にいたあとは、塔矢が帰ったあとが辛くってさ。
一人ぼっちだなって。
俺もいいかげんわかってるよ。
人間は、結局一人なんだって。
どこまで行っても、一人なんだって。
もうわかってるんだ。
でも、どうしても我慢できない夜があってさ……。
(7)
あれは、去年の5月4日だった。
塔矢の都合が悪くて、その日、俺は一人で過ごさなきゃいけなくて。
昼間はまだ大丈夫だったんだ。
夜になって……、テレビつけても、音楽かけても、ぜんぜんダメで。
寂しくて、寂しくて、気が狂いそうで。
塔矢に何回も電話かけたんだ。でも、あいつ電波の届かないところにいて。
もうこれはなにも考えずに寝たほうがいいだろうって、頭っから布団かぶって、羊を数えても全然眠れなくて。
お酒でも飲めば眠れるかなって、バイクで酒も置いてるコンビにまでいったんだよ。
そしたらさ、そこで偶然加賀とあったんだよね。
加賀が久しぶりだなって笑ってくれて、なんか成り行きで、加賀の家で酒盛りして。
酒の勢いで、気がついたらキスしてた。
塔矢とのキスしか知らなかったからさ、加賀の強引なやり方に目を白黒させてた。
加賀は塔矢より舌が長いみたいで、スゴイ奥まではいってくるんだ。
そのとき、加賀とエッチしたいって思った。
誰かが、自分の中にいるって感覚が、欲しかったんだ。
だから、自分から誘った。
塔矢に比べると、加賀は乱暴だったよ。
改めて、塔矢がどんなに自分を大切に扱ってくれているのか、よくわかったよ。
だけど、あのときの俺には、乱暴なぐらいでちょうどよかったんだ。
別に気持ちよくなりたいわけじゃない。
自分の中で脈打つ、自分のものではない存在。
それが欲しかったから、前戯もそこそこに加賀が入ってきたとき、痛みよりもほっとしたんだ。
ああ、これだって。
俺が欲しかったのはこれだって。
加賀は盛んに腰振ってたけどさ、それも俺にはどうでもよくって。
抜かずの三発だったかなぁ、長い間俺の中にいてくれたのが嬉しかった。
俺、疲れちゃってさ、やってる最中に眠っちゃったんだよね。
次の日、目を覚ましたら、失礼な奴だって、加賀に散々文句言われたけど。
その日も、加賀の家に泊めてもらった。
夜、また抱かれてさ。夢も見ないで眠ることができた。
(8)
それから。
それから、塔矢と過ごせない夜、どうしても我慢ができないとき、加賀に電話して抱いてもらった。
でも、加賀だってそんなにヒマしてるわけじゃないからさ、都合のつかない夜があって。
そういうときは、和谷の部屋に遊びに行った。
だからって、和谷を誘うわけにはいかないからさ。
ただ、碁を打って時間を潰してたんだけど、帰り送ってくれた冴木さんに軽い気持ちで泊まっていってと頼んだら、なんか気がついたらそういうことになっていた。
セフレっていうの?
体だけの関係。加賀や冴木さんの他にも何人かいる。
俺ね、いま一番好きなのは、やっぱり塔矢だと思うんだ。
だけど、塔矢がくれないものを、他の人に求めるのはしょうがないと思うんだ。
塔矢を俺に縛りつけるわけにはいかないじゃん。
「一緒に暮らしても、ダメだよ」
俺は正直に言った。
「塔矢に無理させたくないしね。タイトル戦とかゼミナールとかで、お互い家を空けることがあるじゃん。
あるっていうか……そういうの増えてるし、これからも増えてくだろ? そうでなきゃ、困るもんな。
一緒に暮らしても、ずっと一緒にはいられないんだ。同じことだ」
少し掠れた声で塔矢が言った。
「進藤……、僕の気持ちはどうなるんだ?」
塔矢は本当に俺を思ってくれている。
それは凄くありがたいと思うよ。でもね……。
「塔矢の気持ちは、塔矢のもんだ。俺にはどうすることもできないよ。
それにさ……、遅かれ早かれ、俺たちは分かれるんだし。
それなら早いほうが、お互い傷も少ないよ」
「遅かれ早かれ?」
「そう。おまえ、"塔矢アキラ"だもん。いずれ誰かと結婚して、家を継がなきゃ……。
大丈夫。すぐ忘れるって。おまえもてるからさ、可愛い女の子がすぐ現れるよ。
ほら、将棋の羽生さんみたいにアイドルと結婚したりしてさ」
俺は精一杯明るく言ったつもりだ。
それなのに、塔矢は両手で顔をおおって、テーブルに肘をついて深く息を吐き出した。
(9)
「君は……」
塔矢の声が震えてた。
「……僕の気持ちをその程度と思ってたわけだ」
抑揚のない声だった。
「その程度って……」
「いずれ移ろう、あやふやなものだと思ってたんだ」
「塔矢、しょうがないよ。永遠なんてないんだ」
「僕は望んでいる」
「望んでも届かないものはある」
「僕は、君を望んだ。同性であることに何度も絶望したけれど、曲がりなりにも手に入れた。
望めば叶うんだ。僕はそう信じている」
「永遠も?」
「永遠を―――」
「永遠なんて…ないんだよ、塔矢」
俺は立ちあがった。
「塔矢、一局打とう。俺が教えてやるよ。永遠なんてないことを」
タイトル戦でもない。ギャラリーもいない。
そんな一局に、俺も塔矢も全精力を傾けた。
序盤から、しのぎを削る攻防が盤上で展開された。
勝負は、半目差で塔矢が勝った。
俺は、呟いた。
「いい一局だったよな」
「そうだね」
塔矢も満足げに応えた。
俺は苦笑を浮かべると、両手で碁石を崩した。
「でも、残らないんだ」
塔矢が、目を見開いて、俺の顔を見つめる。
「こんなに複雑で面白い対局、そうそうないよな。でも、残らないんだよ」
「僕が覚えている。君が覚えている」
「棋譜に残せば永遠なのか? そこに、俺とおまえの今の想いは刻めるのか?」
「塔矢が黙った。
「永遠なんてないんだ」
(でも、僕は忘れない。君だって忘れないだろう」
「でも、いずれ俺たちも死ぬんだ……、なにも残らない」
そう、人間は、誰もが死んでいくんだよ。
寂しいことだけどね。
(10)
塔矢は静かに腰を上げた。
つい、いつもの台詞を口にしてた。
「帰っちゃうんだ?」
中腰の姿勢のまま、塔矢の体が固まる。
まるで……信じられない生き物を見たような眼で、俺を見下ろしている。
そりゃ、そうだよな。別れを切り出したのは俺だ。塔矢は鍵を返すのを口実にやり直そうと言ってくれた。
そんな塔矢の気持ちを、たったいま粉微塵に踏み潰したのは俺なのに、甘える言葉を吐いていた。
「ごめん」
俺は、塔矢の視線から逃れるように顔を背けると、小さな声で謝っていた。
「クソっ!」
塔矢が短く叫んだ。
「残酷だよ!」
塔矢はそう言いながら、僕にしがみついてきた。
どっちの足が蹴ったんだろう。碁盤が裏を見せている。まだ碁笥に戻していなかった碁石が辺りに散らばる。
そのなかで、俺は塔矢とキスをしていた。
乱暴な、噛みつくような、痛いキス。
頬に熱い雫が落ちた。
俺んじゃない。塔矢の涙だ。
こいつは、時々こんな感じで感情を爆発させる。
ああ、また怒らせちゃったな…って、俺は少しだけ悲しくなる。
塔矢が「好きだ」と言ってくれたとき、「同じ気持ちだ」って、俺は答えた。
でも、全然同じ気持ちじゃなかったんだな。
塔矢は、こんな切羽詰った声を出すほど俺を想ってくれたのに、俺はどうしてもやり直す気になれない。
寂しいよ。悲しいよ。
いまだってさ、また一人になるんだって思ったから、咄嗟に引きとめるような言葉はいたんだと思う。
それでも、しょうがない。
いずれ別れなきゃいけないんだ。
それが今だからって、大差ないじゃないか。
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