夜風にのせて 〜惜別〜 6 - 10


(6)


「ここを辞めて、私と軽井沢へ行ってもらいます」
ひかるは驚いて高橋を見つめる。そして夢よりも明との別れが頭をよぎり、断ろうとした。
「ごめんなさい、高橋先生。それだけはできません」
だが高橋は、ひかるが断るのを予測していたかのように封筒を手渡した。
「中を見てください。これは以前おこなったひかるさんの診断の結果です」
ひかるは封筒から紙を取り出した。それを見てひかるは愕然とする。
「大丈夫です。この都会を出てきれいな空気のところで療養していれば、すぐによくなり
ます。私が必ず治します。だからお願いします」
高橋は泪ながらに頼んだ。
ひかるはそれを呆然と見つめた。その病気は昨年ひかるの母親を死に至らせた病気だった。
それがどれだけ重い病気か、高橋に説明されなくともひかるには理解できた。
「それで…ですか。レコードを出すというのも。それでなんですね。私が死んじゃうから、
高橋先生が頼んでくださったんですね」
高橋は無言で頭を下げた。
「…わかりました」
ひかるはそう言うとふらふらと控え室を出た。
「待ってください。どちらへ行かれるのですか」
心配そうに見つめる高橋に、ひかるは安心してくださいというように微笑みかけた。
「ちょっと…。親しい友人にお別れを言ってまいります」
そう言ってひかるは姿を消した。


(7)


「ひかるさん、おはようございます」
明はひかるの姿を見つけると、赤いマフラーをなびかせながら息を切らして走ってきた。
ひかるはそれを切なげに見つめる。
「これ、約束のマフラーです」
きれいな千代紙風の包装紙に包まれたマフラーを明は照れながら手渡す。
ひかるはその包みを開けた。白の肌触りのよい高級そうなマフラーにひかるは戸惑った。
身につけているものや言動から、明がよい家柄の者だとは感づいていたが、実際にこのよ
うな高級品を渡されると、自分との身分の差を感じずにはいられなかった。
明はひかるの手からマフラーをとると、ひかるがしたようにマフラーを巻いてあげた。
「似合いますよ、ひかるさん」
明は微笑んだ。ひかるはそれを見上げる。しばらく二人は見つめあった。そして明はひか
るの頬に手を伸ばすと口付けた。
「…ひかるさん、ボクはもう離れたくない。あなたのいない時間は酷く長く感じて…。あ
なたに出会わなければ、ボクは日の出がこんなにもありがたいものだとは気付かなかった。
もしボクが学生でなければ、すぐにでもあなたと共に暖かい家庭を築けるのに」
明はひかるをきつく抱きしめた。ひかるはその言葉にうれしくて泪を流す。
ほんの数時間の間に、ひかるは夢である歌手デビューと明の愛の両方を手に入れた。
けれどもひかるには、それがひかるの死を惜しむ神様からのプレゼントのような気がして
ならなかった。
「ありがとう、明さん。私幸せです」
ひかるはしばらく明に抱かれていた。
だがいつのまにか言うはずだった別れの言葉を言い出せなくなっていた。


(8)


「ねぇ明さん。私、明さんと一緒に写真が撮りたいです」
明への未練から、ひかるは初めておねだりをした。
「…写真ですか? そうですね。ボクもひかるさんとの写真が欲しいです」
「それでは今すぐに撮りに行きましょう」
自分に残された時間が残り少ないという焦りから、ひかるは自分が無理なお願いをしてい
ることに気付かない。
「でもこんな朝早くに写真館なんてどこも開いてませんよ」
いつもとは様子が違うひかるを不思議に思った。
「それならそれまで一緒にいることって…できませんか?」
「一緒にですか?」
明は驚く。今まで一度だってわがままなど言わなかったひかるが、こんなにも懇願する姿
は初めてだった。写真ならいつでも撮れるのに、ひかるはいったい何を急ぐのだろうか。
事情を知らない明は、朝が来ればひかるに会えるということが永遠に続くと思っていた。
「お願いです。一生のお願い。もう、わがままなんて言いませんから」
ひかるの懇願に動揺しつつも、明は冷静に応じた。
「今日は学校に行く日ですし、夕方なら時間をとれますが、それからではだめですか?」
明の冷静さに、ひかるは自分がとんでもないことを言っていたのだと気付いた。
「そうですよね。…わがまま言ってごめんなさい。今のはなかったことにして下さい」
ひかるはそう言って俯くと、マフラーを握り締めた。
「これ、大切にします」
そう言って去るひかるの後ろ姿がとても儚く見えて、明は不安になった。
「ひかるさん、ボク、今日の6時に駅前の写真館で待っています」
明はそう言った。そうでも言わないと、もうひかるに会えないような気がしたからだ。
「わかりました…」
ひかるは振り向くことなくそう言って去っていった。


(9)


写真館の前で明はもう一時間近く待ち続けていた。
ひかるのことが心配で早めに着てしまったのだ。あの寂しげな後姿をずっと見送っていた
明は、ひかるを傷つけてしまったと後悔していた。ヒカルの身に何かが起こったのは確実
だった。それなのに自分は突き放してしまった。もしかしたら来ないのかもしれない。そ
んな不安が明を襲う。
その時黒塗りの大きな外車が写真館の前に止まった。
明はその車を見る。するとそこから赤いロングドレスに高級な毛皮のコートをはおった女
性が紳士風の若い男性に連れられて出てきた。
明はその女性をじっと見つめる。高貴で華やかでありながら妖艶な美しさをもつ女性に、
思わず見惚れてしまったのだ。
その視線に気付いたのか、女性が明の方を向いた。明は失礼なことをしてしまったと目を
そらした。
「お待たせしました、明さん」
聞き覚えのある声に、明は顔を上げる。それはひかるの声だった。
「…もしかして、ひかるさん?」
明は驚愕しながらその女性を見入った。その驚きぶりにひかるは思わず微笑んだ。


(10)


「驚きました。女性って化粧や服装でこんなにも変わるものなんですね。ひかるさんが新
宿のクラブで歌っているとは聞いていましたが、普段はボクより年下に見えるくらい幼か
ったから、てっきり冗談だと思っていましたよ」
明は驚いてひかるを見つめる。ひかるはどう見ても、自分の知っている可憐な少女ではな
かった。自分との記念撮影のために、はりきって着飾ってきたのだろうか。明は喜んだ。
「そうですね。明さんに会う時は、化粧とかしなかったですからね。寒かったでしょう? 
 中へ入りましょうか」
そう言うと連れの男性が写真館の扉を開けた。
ひかると明は中へ入る。
その姿を男性は悲しそうに見つめた。



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