残照 6 - 10
(6)
「進藤君?」
俯いて身を震わせているヒカルに、行洋は声をかけた。できるだけ、優しく。
弾かれたように、ヒカルが顔を上げた。
ヒカルの大きな目から涙が零れ落ちた。あふれ出た涙は止まらず、ヒカルの顔が嗚咽に歪んだ。
驚きに目を見張りながらも、行洋はゆっくりとヒカルに近づき、泣き出すのをこらえているような
ヒカルの頭を慈しむように撫でた。
その手が引き金になった。
「あ‥」
ヒカルの口から嗚咽が漏れ、そしてそれはすぐに大きな叫び声になった。
「あああーーーっ!」
ヒカルは行洋に抱き付いて、大声で泣いた。
「佐為、佐為、佐為ぃいーー!
どうして、どうして、いなくなっちゃったんだよぉ!
オレを置いて、オレを一人だけ置いて、
なんにも言わないで、さよならも言わないで、
どうして一人でいっちゃったんだよぉおお!」
突然泣き出した少年が、わからない。
だが悲しみは、こらえているよりは吐き出してしまった方が良い。
自分にしがみついて泣いている少年の背を、行洋は優しく、とんとんと叩いてやった。
(7)
泣きながら、ヒカルは棋院の奥部屋で佐為の棋譜を初めて見たときのことを思い出した。
あの時も泣いた。
けれどあの時は一人だった。
佐為の事は誰にも言えなかったから、たった一人で泣いて叫んで、けれどそれを受け止めてくれる
人はいなかった。だからヒカルの涙も叫びも、ヒカルの中で逃げ場をなくしてしまっていた。
けれど今は違う。
同じ泣くのでも、今はそれを受け止めてくれる人がいる。
行洋のがっしりとした胸にすがりながら、佐為の胸はこんなだったのだろうか、と思う。
佐為には触れることはできなかった。
いつも隣にいて、どんなに身近に感じていても、決して触れることはできなかった。
いつもいるのが当たり前だと思っていたから、空気のような存在だと思っていたら、そのまま
空気のように消えてしまった。
「いつも、いつも、一緒にいたのに。ずっと、一緒だって、言ってたくせに。」
着物の袖をつまんで引っ張って、顔を見上げた。
涙で視界がぐちゃぐちゃで、その顔がどんな風にヒカルを見下ろしているのか、わからなかった。
だからヒカルは目の前の暖かい胸を、責めるようにこぶしで叩いた。
「どうしてだよ?
神の一手を極めるんじゃなかったのかよ?
まだ、届いていないじゃないか?
なのに、どうして消えちまったんだよ?」
叩きながら、また涙が出てきて、ヒカルは目の前の広い胸に顔を埋めた。
そんなヒカルをなだめるように、大きな手が優しくヒカルの頭を撫でた。
(8)
いつしか泣き疲れて眠ってしまったヒカルを、行洋はそっとソファに座らせてやった。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、濡れタオルでそっと拭う。
「…佐為…」
ヒカルの口から、今はもういない人の名前が漏れ、また一筋、涙がこぼれる。
その涙を行洋はまた拭ってやる。
息子と同い年のその少年は、寝顔のせいなのか、歳よりも随分と幼く見える。
実際、ヒカルの口から漏れる言葉は支離滅裂で、行洋には理解できない事のほうが多かったが、
それでもわかった事はある。
それは、saiがもういないのだ、という事実。
そして、彼は進藤ヒカルにとって、大切な、身近な人物だったのだろう、という事。
確か去年の5月頃からだった。この少年が手合いに出て来なくなったのは。
自分がsaiと打ってから、それほど日が経ってはいなかったと思う。
彼―saiが消えた(?)のはその頃だったのだろうか。
きっと、そのために、この少年は碁から離れようとしたのだろう。
どんな思いで別離の悲しみを乗り越えて、この少年はここへ戻ってきたのか。
行洋は復帰後のヒカルの快進撃を思い出し、そしてその原動力がどこにあったのかが
わかった気がした。
(9)
真剣勝負として臨んだ自分を更に上回ったsai。彼と出会って、自分は変わった。
プロを引退したという事だけでない。
囲碁への情熱を新たにし、まだ自分の中に新しい碁があるのだと気付き、新しい世界へと
もう一度足を踏み出した。自分にそうさせたのはsaiとの1局だ。
そのsaiはもういないのだと彼は言う。それは行洋にとっても衝撃だった。
だが行洋のそんな衝撃も後悔も、この少年の胸の中の痛みに比べればどうということも
ないのかもしれない。
行洋は痛ましげな眼差しでヒカルを見下ろし、明るい色の前髪をそっとはらった。
saiとの別れが、きっとこの少年にとっての初めての別離だったのだろう。
それがどんなに辛いことなのか。親しい人を失う悲しみを、自分も何度も味わってきた。
最初の別離の苦しみも悲しみも、今はもう遠い思い出の中にしかない。
別れの味に慣れてしまった自分を、行洋は少し悲しく思った。
けれど、どんな出会いも、最後には別れで終わるのだ。
どんなに辛くても、それは避けられないことなのだ。
これからも、何度も、同じような、けれどその都度異なる別離が、彼を襲うだろう。
せめてそれらが、少しでも、彼にとって優しく、納得のできる別離であることを希いながら、
行洋はヒカルの髪を梳き、頭をそっと撫でてやった。
(10)
優しい手の感触にヒカルは目を開けて、そして、その手が行洋のものであるとわかって、
慌ててソファから身を起こした。
「ご、ごめんなさい、オレ…」
「済まないね、」
優しい慈しむような目で笑って、ヒカルの頭を撫でた。
「辛いことを言わせてしまったようだな。」
その言葉にヒカルは首を振った。
誰にも言えなかったことを聞いてもらえた。そしてきっと、行洋にとっては訳のわからないことを
口走って子供のように泣き喚いた自分を、受け止めてくれた。
嬉しかった。ありがたかった。少し恥ずかしくもあり、照れくさくもあったけれど。
「進藤君、」
ヒカルの頭をポンと軽くたたいて、行洋は呼びかけた。
「明日からの君の闘い振りを楽しみにしているよ。」
思いがけない行洋の言葉に、大きな目を見開いてヒカルは行洋を見上げた。
「…ありがとうございます。」
ヒカルの言葉に行洋はにっこりと笑った。
「塔矢先生…」
ヒカルは立ちあがって、深く頭を下げた。
「ごめんなさい…ありがとうございました。」
そうしていると、また涙が出てきそうになった。
唇を真一文字に引き締めて、涙をこらえて、ヒカルは顔を上げた。
そんなヒカルを、行洋は優しく微笑んで見ていた。
その微笑みを見て、ヒカルは、ああ、塔矢に似ているな、と思った。
やっぱり親子なんだなあ、と思いながら、もう一度、深々と礼をした。
そうして部屋を出て行こうとしたヒカルに、行洋が背後から声をかけた。
「そうだ、進藤君、」
呼び止められて、ヒカルは振り向いた。
「よかったら、今度うちにおいで。一度、君と手合わせしたい。」
ヒカルは行洋の言葉にこっくりと肯いた。
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