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(6)
アキラにとって、初めて会った頃のヒカルとは、いつも騒がしく落ち着きが感じられない
存在だ。
やや礼儀に欠けていて、ちょっと言葉足らずな、直情型。
その反面、無邪気で屈託の無い明るさで色々な人に愛され、そして何よりも、誰よりアキ
ラの心に(良くも悪くも)遠慮無く入り込んでくる、そんな少年だった。
だが、この家で一緒に過ごす時間が多くなって気が付いた事がある。
ヒカルの目が、時にとても遠い処を見ている事。
その時の背中が酷く淋しげな事。
喉の乾きを感じて本から顔を上げたアキラが偶然目にして以来、その光景はしばしば見ら
れるようになった。
ただし、それはほんの一瞬の事で、気が付いた時には「ん? もう読み終わったのか?」
と、ヒカルがのほほんとした笑みを湛えていた。
アキラがその後『それ』に何度か気付く機会があったのは、文章を目で追いながらも全身
の意識がヒカルの方に向いていたからだ。
初めて見た時には、そぐわない、そう思った。
少なくとも塔矢アキラの知る進藤ヒカルはそういう目をする少年ではなかったハズだ。
だが、忘れもしない彼が「もう打たない」と言った頃から、アキラの知らない色々なヒカ
ルは時々顔を見せていた。
そして、同時期、彼から極端に『幼さ』が抜け始めたのも気のせいではないだろう。
よってヒカル猫の『それ』に気付いたアキラは、進藤もこんな表情するんだ、と自分を無
理矢理納得させた。
心の底にほんの僅かな違和感を残したまま。


(7)
「なぁ、いつまで怒ってんだよ」
八畳間の和室で、お茶だけをどんと出されて、座布団の上にちょこんと収まっていたヒカルが途方に暮れたような声でそう尋ねた。
ヒカル自身、理不尽な怒りを向けられているのは分かっているが、その時の彼に怒り返す気力はなかったし、そんなに毎度毎度喧嘩ばかりしなくてもいいとも思った。
怒っている理由が分からずに謝るのは嫌だし、アキラにしたって取り合えずの謝罪なんてされても納得するはずないのだ。
どうしようもない間を持て余したヒカルが、組んだ胡座の足首付近を両手で持って身体を前後に揺らしていると、アキラがふぅっと深い溜め息を付いた。
また怒らせたかと思ってヒカルは慌ててその動きを止めたが、どうやらそうでは無かったらしい。
アキラはまだ苦々しい表情だったが、何かを考え込むように目を閉じた後、ヒカルの名前を呼んだ。
座卓を隔てた距離から無言で「何?」と問い返すが、アキラは何も言わずこっちこっち、と手招きしている。
立つのも面倒な距離なので、四つん這いのままアキラの隣に座り込む。
すると、アキラが顔を近付けてヒカルを覗き込んできた。
ヒカルは、アキラの顔をこんな間近でまじまじと見るのは初めてだった(喧嘩最中に顔を近付ける事はあったが、その時はお互い怒り心頭なのであまりよく覚えていない)
ので、うわー、睫毛なげーとか、目ぇ真っ黒だなーとか、やっぱこいつ綺麗な顔してんなーとか勝手な事を思っていたが、勿論アキラはそれを知る由もないだろう。
ヒカルの少し大きめのきょろんとした瞳は、瞬きもせずに無遠慮に対象物を見つめていたが、暫くしてその対象物自身が視線から逃れるように遠ざかった。


(8)
「やっぱり自覚が無いだけなんだな」
溜め息混じりに言う(溜め息に聞こえたのはヒカルにであって、アキラにしてみればただ単に跳ねている呼吸を落ち着けようと息を吐いただけなのだが)アキラにヒカルが首を傾げた。
「こんな距離まで近付かれて何も思わないのか? キミは」
「え? なんで?」
ヒカルの疑問はあくまでも素直な音で返ってくる。
そう聞き返す事が当り前のように。
「だって、普通はこんなに人が近付いたら嫌じゃないか?」
「…………」
思ってもみなかったのか、ヒカルはただ目だけを何度か瞬きさせる。
彼は言われてみて初めて、アキラが少し顎を引いていなければ鼻先が触れそうな程に接近していた事に気付いたらしい。
ヒカルの行動に無遠慮に感じる部分は今までも多々あったが、そう感じた理由が彼の発言や行動によってのみ生じるものでない事に、アキラもまた、気付く。
彼は、平気で相手の個人空間──パーソナルスペースに入ってしまうのだ。
それは勿論、彼自身の個人空間も侵されている訳で、本来ならあまり気持ちの良いものではない。
ヒカルのように外向性の高い人物ならば、確かに個人空間も狭いのかも知れない。
が、それにしても鼻先が触れあう距離というのはどうだろう。
動物ならば、防衛本能まるで無しという状態じゃなかろうか。
「塔矢も、今、嫌だった?」
聞かれたくない事をズバリ聞かれて、アキラは話を逸らそうとする。
顔を直視する事も出来なかったので、彼はヒカルのその言葉がどんな表情で発せられたものなのかという事にも気付かなかった。


(9)
「ボクは……、いや……、ただ、ファミリーレストランでキミが隣に座っていた子と話すのを見ていて、そんなことないのかな、って思ったから……」
言い出したらそれは自分の耳にも言い訳めいて聞こえ、アキラは矢継ぎ早に話す。
「いや、普通は抵抗あるだろう。誰だって」
一瞬、ヒカルの瞳が揺れた、気がした。
だが確かめる間もなくヒカルは俯く。
「……嫌そうだった?」
「さぁ、そこまでは……」
と答えながら違う、と思う。
彼女は困ってこそいたが、嫌がってはいなかっただろう。
「兎に角、異性相手の時はもう少し気を使った方が良いと思う。 藤崎さんも怒っていたよ、多分」
「なんであかりの名前が出てくんだよ、そこで」
幾分ムッとした口調で問い返してくるその顔は、いつものヒカルだ。
さっき見た表情は錯覚だったのだろうかとアキラは思った。
それで少し気持ちが軽くなったのか、アキラの口からボクだって、と声が滑り出した。
「ボクだって、少し抵抗ある」
「…………」
「そっか」
長い沈黙の後に、ヒカルは無理して作っているような笑みを浮かべて言った。
彼はそのまま膝を抱え込んで丸くなり、暫く畳を見つめていた。
その様子があまりに頼り無くて、アキラが声を掛けようとしたその時、目を伏せていたヒカルが、軽く息を吐いてぽつりと呟いた。
「オレ、帰る」
「帰るって……。もう終電は無いよ」
立ち上がり、荷物を拾い上げるヒカルを、アキラは慌てて引き止めたが、返される言葉はにベもない。
「そこら辺でタクシー拾うから、いい」
拒絶するような、どこか人を突き放す響きのある声だった。


(10)
誰もいない和室の一角で、アキラはヒカルが帰った時のままの状態で呆然と座り込んでいた。
そういえば、玄関に見送りに出る事さえしなかった。
鍵を掛けなければと思うが、身体がその思考に従おうとする気配はない。
それでもなんとか彼は立ち上がって、緩慢な動作で部屋を出る。
突然ヒカルが機嫌を損ねた(というのはやや違う気がしたが、他にどう表現すべきか
その時のアキラには分からなかった)理由がなんだったのか検討すべく、
事の顛末を頭から思い出してみる。
自分が顔を近付けた時に、嫌なそぶりはなかった。
むしろまじまじと見つめられて困ったのはこちらだ。
誰だって、あんな距離で相手の顔を直視するのは正直辛い筈だ、
アキラは自分の胸にそう言い訳して、
いや、言い訳じゃない、ボクが思っている事は正論(の筈)だ、と更に自分の中で訂正する。
確かにそれは正論なのだが、どうにもこうにも言い訳めいて聞こえるのは、
アキラの思考自体に雑念が入り交じっているからだと云う事に、彼は気付いていない。
らしくもなく裸足のまま三和土に降り、施錠してからやはり汚いなと思って
玄関の段差に腰を掛けて靴下を脱ぐ。
洗濯機にそれを放り込んでから、アキラはまたもとの和室に戻ってきてしまった。
やる事もなく、黒檀の座卓の傍らに座り込む。
そこで初めて座卓の傍に何か落ちている事に気付いた。
ヒカルの扇子だった。



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