霞彼方 6


(6)
その言葉に、刹那、ヒカルの周りで止まってしまった時間が動き出した。
信号の向こうへ、ヒカルは一歩を踏みだした。
家へ帰るための一歩ではない。
目指すは――遥か、霞の彼方。


一方森下は、それからしばらくしても、まだ歌舞伎町のネオンの中をうろうろ
していた。ピンサロ、イメクラの看板の美女達が、妖艶に微笑みかけている。
その美女達の中に、無意識に進藤ヒカルに似た顔を探している自分に気付いて、
頭を掻いた。
「うーむ、参った」
先ほどのヒカルの微笑みが脳裏から離れない。信号を渡り去ろうとする最後に、
あごをひき、口角をほんのりと上げて、挑むように笑ったあの表情が、下半身を
直撃していた。
これが、あのクラブの女将が言っていた「棋士の色気」というやつだろうか?
にしたって、こんな風にいてもたってもいられないほどに、それは生殖腺を
刺激するものだろうか?
どうも違う気がする。
みっともない話だが、これは一発抜いて帰らなければ、目覚めの悪いことに
なりそうだ。
で、よさそうな店を物色しに歌舞伎町の奥へと入ってきたわけだが、目が自然に
進藤ヒカルに似た女を探してしまうから困りものだ。
だが、それだけは避けたい。
もし進藤ヒカル似の女など抱いてしまったら、今度の研究会がひどく気まずい
ものになるのは明白だ。
師匠の意地として、そんなことはなんとしても避けたい。
いや、しかし、この頭に焼き付いてしまった、別れ際のあいつのあの顔を
どうやって振り払ったものか。
「――やっぱり帰って、バケツの水かぶって寝るか」
森下は再び、帰り道を駅へと急ぐ、酔っぱらったサラリーマンの群れに加わった。

                           <霞彼方・終>



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