Cry for the moon 6 - 9
(6)
まったく、俺って女々しいよな。いつまで昔を引きずってんだ。
しかも相手は別れた恋人とかじゃなく、同じ中学の同級生だ。
なのにいちいち反応したりして、自分でも滑稽だと思う。
「進藤、そちらは」
「俺の中学の時の囲碁部の友達。三谷って言うんだ。三谷、こいつは……」
「知ってる。塔矢アキラだろ」
「そうか、会ったことあるもんな」
なんだか的外れな言葉だ。囲碁に少し興味を持つ者なら塔矢アキラくらい知ってる。
「ボクは彼に会ったことがあるのか?」
「覚えてない? 囲碁部の大会で」
塔矢アキラは首をかしげた。そしてすまなさそうに俺を見た。
覚えてなくて当たり前だ。あのときの塔矢アキラは進藤しか見ていなかった。
そして進藤も同じように、塔矢アキラしか見ていなかった。
そんで挙句のはてに院生試験を受けるって言い出しやがったんだ。
あの時の衝撃は忘れられない。裏切られたと思った。何のために俺をここに誘ったんだ。
自分から手を差し出してきたのに、あっさりと引っ込めるのかよ。
こんなやつ、プロになれなくて遠くから塔矢アキラを見ていればいいんだ。
そんなふうに思った。頑張れよ、なんてとても言える気持ちにはなれなかった。
自分がガキだったのだと今ならわかる。
「んじゃ、ま、全員そろったところで、進藤のタイトル獲得を祝って、乾杯!」
いっせいに飲みかけのグラスを掲げる。照れくさそうに進藤は笑った。
何だか進藤とものすごい隔たりを感じた。目の前にいるのに。
「……良かったな、まだ三段なのに、タイトル取れて。しかも本因坊。一番権威と歴史が
あるやつじゃん。プロの目標達成って感じだな」
何でこんな言い方しかできないんだ、俺は。素直におめでとうっていえばいいのに。
これじゃあ嫌がらせを言ってるみたいだ。
(7)
部外者の俺がこんなことを言ったせいで、雰囲気が重くなった。
謝ろうとしたとき、進藤は首を横に振った。
「違うぜ、三谷。オレ、三段じゃなくて四段。あの後すぐに昇段したんだ。あとさ、
ちっとも目標達成なんかじゃないぜ。だってタイトルは目標じゃなくて手段だからな、
一手を極めるための。でもそんなことを言ってても、やっぱり本因坊のタイトルはさ、
正直とてもうれしいんだ」
屈託なく進藤は笑う。だけどかえって俺は切なくなった。
進藤の見ているものが俺には見えない。
「塔矢が名人位をとったらおもしろいよな。また“塔矢名人”って呼べるようになる。
で、塔矢名人、って呼ばれて塔矢が、父じゃありませんけど、って言うの」
「……進藤の思考って低レベルだね」
「俺もそれに同意する」
「越智! 本田さん!」
進藤が声をあげるとみなは笑い出す。だけどその空気はどこか緊張していた。
ここにいるのはただの仲間じゃない。ライバルなんだ。
けれど進藤が意識しているのは塔矢アキラただ一人なんだろうという気がした。
進藤ヒカルと塔矢アキラ。
この二人は並び称されるようになっている。
囲碁界の双頭の龍、もしくは鷲。双璧、二振りの剣――――
けど俺の頭に思い浮かんだ言葉は、双子の月、だった。
二人とも月のようだからだ。目に見えているのに、届かない存在。
本当に俺とは別のところに住んでいるんだ。
一瞬でも同じ場所にいられた俺は、幸せなのかもしれない。
出会えて良かったと思う。苦しさもあったけど、それ以上のものをもらった。
なのに俺は進藤に「がんばれよ、応援してるぜ」と、言うことさえできなかった。
俺はずっとそれを後悔していた。
(8)
「あー、うまかった! じゃ、会計よろしくな。ごちそうさん」
進藤の満足そうな声が響く。本当にこいつは一人でよく食べていた。
「くそ、たくさん食いやがって。おい、一人いくらだよ」
「割り切れないよ。誰が多めに払う?」
騒ぎながら勘定を済まし、出ていく。けど進藤は残って俺に近付いてきた。
「また来るよ」
また来る――――うれしさよりも、悲しさを感じた。
その言葉に縛られて、俺はきっとずっと待ち続けることになるんだ。
そんな自分は哀れで、嫌だ。
「こんなところに来るほどヒマになったらやばいんじゃないの」
「じゃ、タイトルとったら来るってのは?」
そんなに簡単にとれるものじゃないだろう。けど、進藤なら本当にできそうだ。
「……待ってる」
「うん……あのさ、三谷」
進藤は頭をかきながら口ごもった。けど意を決したように話し始めた。
「中学のときは、ごめんな。あんな形で、囲碁部を出て行って。大会、一緒に目指せなく
なって、本当にごめん。もっと早く謝りたかったんだけどさ。ホント、今さらだけどさ。
でも言いたかったんだ」
俺は息が詰まった。言葉が出てこない。進藤は少しでも俺を気にしていてくれてたんだ。
何も言えずにいる俺を見て、進藤は軽く肩をすくめた。
「じゃあな」
片手を振り、進藤が店を出て行く。
俺も言い残した言葉がある。俺だってずっと言いたかったことがあるんだ。
慌てて店を出て、その背に向かって叫んだ。
「進藤! がんばれよ! 応援しているからな!!」
道行く人がふりかえる。進藤は目を見開いたが、ふわりと笑顔になった。
「ありがとう」
笑みの形の唇。俺はその感触を知っている。それはほんの一瞬の、はかない幻。
(9)
進藤の後ろ姿が見えなくなっても、しばらく俺は立ち尽くしていた。
中学生のころ、何をやっても俺は無気力だった。
父親の首も危ないみたいだったし、学校はつまらなかったし。
毎日が昨日の繰り返しで、退屈だった。そんな中、進藤と出会った。
まるで光が射しこんできたような気がしたんだ。
「ああ、そうか……」
太陽ではなく、月。
暗闇の中の俺を照らしたから、進藤に月のイメージがあったんだ。
そして今では遠くにいる進藤を象徴している。
俺は顔をあげた。月が明るく輝いている。夏の夜は短い。
空が低く、月は手に届きそうなほど近くに見える。でも届かないんだ。
今日習った英語の慣用句が思い浮かんだ。
「月をねだって泣く子供、か」
決して手に入りはしないのに、望んでしまった俺はバカだ。
月の輪郭が不意に淡くにじんだ。
* * * * *
俺は天に輝く月に焦がれた。
たった一度だけ、水面に映るその影に触れた――――
初めてのキスは中学一年生のとき。
夏の盛りの理科室。
相手は初めて好きになった人だった。
――――終わり――――
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