落日 6 - 9
(6)
どちらの側にも付きたくないと、迷った挙句、そう決めた。
だが、その選択が間違っていたのではないかという後悔がある。
己一人の力など大きなものではないと、わかってはいる。己のできることなどたかが知れていたろう。
もしも自分が彼の側に付いていれば彼の死を防げたなどということは欠片もないのだろう。
ただ、あの美しく優しかった人をそのまま儚くさせてしまった政治と言うものに嫌気がさすのと同じ位、
自分の優柔不断さを呪いたかっただけかもしれない。
そして今も、自分は迷っている。
あの時、求められるままに彼を受け入れてよかったものなのか。
彼が求めているのは自分ではない。それはわかっている。
それでも自分が少しでもあの人の代わりとなって彼を慰めてやれるのなら――そう、自分に言い聞
かせても、それが誤魔化しでしかない事に気付いていた。彼が誰を求めているかなどどうでも良かっ
たのだ、あの時の自分は。
助けを求めるように見上げられて、か細い身体を押し付けられて、それだけで自分の理性は吹き
飛んだ。いや、理性など、彼の涙を見た瞬間から、跡形もなく消え去っていたのかもしれない。
華奢な身体の細さに、滑らかな皮膚の肌触りに、熱い体温に、甘く咽び泣く声に、夢中になった。
彼が病み上がりの身体である事など忘れきっていた。無我夢中になって彼の内部を抉り、腰を打ち
つけ、一際高くあがる嬌声ときつい締め付けに、気が遠くなるほどの快感を感じながら、彼の奥に己を
解き放った。快楽の余韻からやっと我を取り戻して初めて、少年が自分の腕の中で気を失っているの
に気付き、蒼ざめた。
その顔は苦痛に歪み、荒い息も熱い身体も快楽ではなく肉体の疲弊を訴えていた。
やっと寝台を離れられる程に快復した身体を、労わりもせず欲望のままに蹂躙してしまった己自身に、
彼は恐怖した。己の罪悪を押し隠すように、少年の身体に衣を着せ掛けようとするも、彼の身体が体液
に塗れている事に、そこに衣を着せる事に躊躇する。
彼の身体を隠すように掛け布をかぶせ掛け、そそくさと衣を着込んで女房を呼び、湯を持たせた。
(7)
湯に浸した布で彼の身体についた汚れを丁寧にふき取ってやり、衣を着せ掛けてやった。
そうしてやっとほっと一息ついて、傍らで眠る少年の顔を覗きこんだ。
先ほどよりは安らかな顔で眠りについている彼は、やはりしかし、以前見知った、少年検非違使とは別の
人間のように思えた。
なぜ、と自らに問いかけながら彼の柔らかな、特徴のある前髪を梳く。
彼をそういった対象として見たことは無かったはずだ。
それなのになぜ、こんな事をしてしまったのか。
いや。
彼の儚げな笑みを見てズキリと痛んだ胸の痛みを思い出す。
あの痛みはなんだったのか。
窶れてこけた頬が痛々しい。長い睫毛の下に涙が滲んでいるのに気付いて、胸が締め付けられるように
痛んだ。多分、いやきっと確実に、自分を「彼」と混同しているのだろう。知らなかった。気付かなかった。
彼らがそういう関係であった事に。そうであればこそ、彼のこの憔悴も納得が行くというものだ。
可哀想に。そう思った。
だからこれは同情だ。逝ってしまった人を思って泣く子供が可哀想で、彼を慰めてやっただけだ。
いや、違う。
同情などではない、断じて。
ではこの感情は何だ?
(8)
あの日、彼を抱くまでは、ただ純粋に彼の身体を心配して、どうしようもなく気になって、それで、ここへ
足を運んだ。けれど今は。離れていると、彼の縋るような眼差しが、しがみ付く腕の力が、自分を呼ぶ。
甘く切ない喘ぎ声が耳に絡み付いて離れない。
彼を慰めてやりたいとか、涙を拭いてやりたいとか、そんな広い気持ちではない。ただ彼が欲しかった。
けれど彼を抱いた後は、必ずいつも後悔と苦悩に包まれる。抱くべきではなかったと、苦い思いが胸の
内に広がる。抱いてしまえば尚益々、彼の求めているのが自分ではない事がわかって、虚しくなる。
彼の身体だけでなく、心まで欲しくなって、それなのに抱けば抱くほど、彼の心は遠く離れていくように
感じてしまう。
もうやめよう。何度もそう思った。
もうやめよう。二度とここへは来るまい。
けれど、そう決心はしたものの、二日もたてば、もしかして彼はまた泣いているのではないか、せめて
顔だけでも見たい、そう思って足は勝手に自分を運んでしまい、顔を見てしまえばやはり我慢できずに
抱いてしまう。
心のどこかに、こうして抱いていればいつかは自分を見てくれるのではないか、それに少なくとも彼は
自分を拒んではいない。むしろ求めているのは彼の方で、だからつい、自分は期待してしまうのだ。
こんな関係は自分にとっても彼にとっても良くないのではないか。そういった疑問は常にあるのに、彼の
前に立つとちゃちな決心など脆くも崩れ去ってしまう。流され易い自分が呪わしい。
いつでも自分はこうして悩みばかりだ。
苦悩を抱えながらも若き青年貴族、伊角信輔は、そっと目の前の少年を抱き寄せ、頬を包みこんで、
清らかな額にくちづけを落とした。
(9)
前はこんなじゃなかったのに。
眩しい程の夏の日差しのような明るい笑顔だったのに、「彼」を失ってからというもの、彼は変わって
しまった。
振り仰ぐように空を見上げる彼は、秋の空気のように、悲しいまでの透明感を漂わせていて、目を離
したら消えてしまいそうだった。衝動的に彼の身体をきつく抱きしめた。抱きしめたことでわかる肩の
薄さに、腰の細さに、甘く香る彼の匂いに、頬に触れる柔らかな髪に、眩暈がした。小さな声で名を
呼ぶと、顔をあげてこちらを見た。涙で潤んだ大きな瞳と、小さく震えている薄紅色の唇に己の身体
の熱が上がる。そのまま唇を奪いながら彼の細い身体を探ろうと手を動かした。かれど彼は嫌がる
そぶりは無く、むしろそれを待っていたかのように抱き返された。
衣の袷を広げ、唇を落とすと、微かに甘い息が漏れる。それだけでもう夢中になった。多分、乱暴に、
性急に走ってしまった手に、彼は容易に身体を開いた。閉ざされた奥の門を乱暴にこじ開け、押し
入っても、それを待ち望んでいたように甘い悲鳴を上げながらしがみ付いてきた。
正直、戸惑ったのも事実だ。
けれど、ああ、やっぱり、とも思った。
やはり「彼」とはそういう関係だったのか。
そんなものは、「彼」が彼を見る優しく穏やかな瞳を、彼が「彼」を見上げる嬉しそうな幸せそうな瞳を
見れば、二人の絆は、二人がお互いを大切に思い合っているのは、誰の目にも明らかだった。
そしてそれが事実として確認されれば尚の事、今の彼の状態に理由がつく。
だがそんな事はもうどうでもいい。「彼」はもういないのだから。
いない人のことをいつまで思っていても仕方がない。そんな風に考えた。
弱みに付け込んで、という意識も無いではなかったが、そんな事を気にしてどうする、何と言っても
彼は自分を受け入れてくれているではないか、と乱暴に片付けてしまった。
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