黎明 60 - 68
(60)
なぜだ。
なぜわからないんだ。
そこまで僕を欲しいというのなら、それなら、なぜ気付かないんだ。
その誰かが君だという事に、いつだって僕が見ているのは君しかいないという事に、僕が欲しい
のは、僕が誰よりも想うのは君なのだという事に、なぜ君は気付かないんだ。
けれど僕は知っている。なぜ君がそれに気付かないのか。
佐為殿以外の誰かが君を愛する事など、それこそ君はそんな事は万に一つもないと、信じて疑
いもしない。そうして君は彼以外のひとが君を愛する事を許さない。そうやって君は僕の想いを
否定しているんだ。
僕は知っている。逝ってしまっても、それでも尚、君の心を一番に捉えているのは佐為殿だとい
うことを、君の中の特別の位置は彼に占められていて、他の誰の入る隙も無いという事を、僕は
誰よりも強く思い知らされている。彼の為に闇の底にさえ堕ちて行った君を、僕は知っている。
君は、君の心は一欠片も僕にはくれないくせに、僕を欲しいなんて、言うな。たった一度だけ僕の
熱が欲しいのだと君が言うのならば、僕は君の全てを永遠に欲しいと思う。そんな僕の想いには
君は決して応えはしないくせに、僕の望むものを欠片もくれはしないくせに、それなのに僕を欲し
いなんて、言うな。
一度でいいなんて、言うな。
一度きりじゃ嫌だから、たった一度でも抱き合ってしまったら君の全部が欲しくなってしまうから、
けれどそれはかなわぬ望みだと知っているから。
一度でも抱き合ってしまったら、忘れられなくなる。
だから、だから一度でいいなんて言わないでくれ。君に必要な僕はたった一度で充分だなんて、
それだけしか欲しくないなんて、僕に思い知らせないでくれ。
忘れてくれなんて、言うな。忘れられるはずがないじゃないか。今でさえ、僕は君を忘れるなんて
できない。行き場のない想いを抱えたまま、その想いを忘れることも捨てることも出来ない。
僕が戻るんじゃない。君が出て行くんだ。そうして僕は一人取り残される。
思い出すだけの思い出なら最初から欲しくない。そう思ったからこそ。
(61)
「おまえが、好きだ。アキラ。だから、おまえを俺にくれよ。」
真摯な瞳がアキラを正面から見詰めた。
真っ直ぐに向けられたその眼差しを、拒み通すことなど、所詮、できるはずがなかったのだ。
溢れそうになる涙を追い落とすように仰のいて瞼を閉じると、涙は両の目からアキラの頬を伝って
流れた。その涙を吸い取るように、ヒカルがアキラの頬から目元へとくちづけた。
否、と言わないアキラが、そのまま諾と言う返事なのだとヒカルは受け取り、初めて拒否される事
もなくその唇に唇で触れた。震えおののきながら、アキラの唇はヒカルを迎え入れた。初めて味わ
う熱く甘いヒカルのくちづけに、アキラは痺れるような陶酔感に酔いながらも、胸がギリギリと痛む
のを感じた。熱くくちづけを交わすうちに、心臓は耐え切れぬほど激しく暴れだし、脈動はそのまま
身体の中心を通って下半身へと通じていた。
ヒカルがアキラの震える身体を床に押し倒し、彼の中心に屹立する熱い男性の証をぎゅっと握り
込んだ。これが、この熱が、ずっと欲しかった。
彼の衣を剥ぎ、自らの衣を脱ぎ捨て、そして彼の中心に熱く震えるその熱棒をヒカルが口いっぱ
いに頬張ると、彼の口から悲鳴のような熱い吐息が漏れた。それに気付いて、ヒカルは彼の熱い
中心への刺激を手に任せて、彼の唇をもう一度唇で塞いだ。アキラを擦りあげるようにその手を
動かすと、熱い息がヒカルの口中にもたらされた。
それが、ヒカルの望んだものだった。彼の発する熱の全てが欲しかった。体温も、声も、吐く息も、
何もかも全てを自分のものにしたかった。手の中で彼の分身が熱い涙をこぼす。びくびくと震える
それが放出の瞬間に近づこうとしているのを感じて、ヒカルはあわてて片手でそれを押し止めなが
ら、先端から零れる先走りの涙を自分の秘門に塗りつけ彼の上に跨った。そして震える彼をそこ
にあて、貫くように一気に腰を沈めた。ヒカルがアキラを根元まで飲み込み、奥まで到達した瞬間
に、アキラは熱い精をヒカルの内部に放ち、ヒカルはそれが自分の奥に広がって行くのを感じた。
これこそが、ずっと、ずっと、欲しかったもの。
望んで、求めて、ようやく得られた熱い熱に、ヒカルは喜びの涙を流した。
(62)
内部にある未だ失われていない熱を煽るように、ヒカルは彼の上で動き出した。
自らを飲み込み締め付ける動きに、彼がヒカルの下で熱く苦しげな息を漏らす。その息を逃さぬ
ようにヒカルは彼の腕を掴んで引き起こし、唇を塞いだ。
本能が彼を動かし、ヒカルを突き上げる。それに応えるように、その熱を更に煽り立てるように、
ヒカルがまた動く。動きに伴って激しく出入りを繰り返すそこからは赤い血の混じった白い精液が
泡だって粘液質の音を立てる。その音さえ飲み込むように荒い息遣いが聴覚を支配する。ぎしぎ
しと身体が軋み、皮膚は熱く燃え上がり、汗が飛び散る。
激しい動きの頂点で彼らは同時に到達し、二度目の熱がヒカルの奥深くへ放たれ、ヒカルの放っ
た熱が彼の腹部を濡らす。痙攣する身体を繋ぎとめるように強く抱きあったまま、彼らは互いの熱
を受け止めた。
まだ熱く荒い息をついている唇にまた唇を重ね、それから彼の顔を両手で挟んで覗き込んだ。熱く
濡れた瞳がヒカルを見上げた。その熱い眼差しが自分に向けられているのが嬉しかった。嬉しくて
また唇を重ねると、彼の舌がヒカルの中に侵入し、口腔内を熱く探り、ヒカルの舌を絡めとった。彼
の方からくちづけを返してくれたことが、ヒカルは嬉しかった。自分が求めているだけでなく、彼もま
た自分を求めてくれているのだということが確かに感じられた。
「アキラ…好きだ…」
彼の身体に自らの重みを預け、頬を摺り寄せて、ヒカルは言った。
(63)
けれどアキラはヒカルのその言葉に激しく反応し、上にいたヒカルを乱暴に追い落とすように身体
を起こし、逆にヒカルの身体を自分の下に組み敷いた。訳がわからずにヒカルがアキラを見上げ
ると、黒い炎のように燃える瞳がヒカルの瞳を貫いた。燃え上がる炎の激しさが、熱情なのか、情
欲のためなのか、それとも怒りなのか、区別がつかなくて、けれど恐ろしくて、ヒカルは心臓が激し
く脈打つのを感じた。
黒く燃える瞳が真っ直ぐにヒカルを見据えたまま、近づいてくる。
その熱に耐え切れずにヒカルは目を瞑った。
まるで長いこと餓えていた人間が、目の前に差し出された果汁の滴る新鮮な果物にかぶりつくよう
に、アキラは無我夢中でヒカルを貪った。そうされて、もう、ヒカルはただ彼の身体にしがみつくしか
できなかった。
アキラがヒカルの肩口に齧りつき、ヒカルは鋭い痛みを感じた。そしてアキラの舌がその痛みを吸
い取り、舐め上げるのを感じ、アキラが傷口から溢れ出る赤い血潮を舐めとり、吸い上げているの
だとわかった。執拗に血液を吸い上げるようなアキラの舌使いに、ヒカルはアキラに生きたまま食
べられてしまうのかもしれないと思った。けれどそれでも構わないと思った。肩の傷口から唇を離さ
ないまま、アキラの手がヒカルの胸元を探り、突起を探り上げるとそれを指ではさみ、それから引き
ちぎれるほどに強く、摘み上げた。その痛みに、ヒカルは悲鳴を上げた。今度はアキラが、ヒカルの
悲鳴を漏らさぬよう、ヒカルの唇を塞いだ。
アキラの唇が、手が、ヒカルの身体を探り、触れる箇所からその度にヒカルの皮膚に新たな火が
ともる。燃えるように熱い腕が、脚が、強引にヒカルの身体を割り開き、ヒカルの中に侵入してきた
灼熱の楔は激しい勢いでヒカルを蹂躙する。
熱い。
何もかもが熔けてしまいそうに、熱い。
燃え上がる炎の渦に飲み込まれ、熱い坩堝の中で身体も、意思も、思考も、感覚も、記憶も、快楽
さえもドロドロに溶けて混ざり合い、この熱が自分の皮膚の熱なのか、彼の皮膚の熱さなのか、自
らの内から生ぜる熱なのか、彼の中に燃える炎なのか、全ては区別もつかず、ただ、「熱い」という
感覚だけがヒカルを焼き尽くし、燃える灼熱の炎の中でヒカルは今まで到達した事もない高みへと
昇って行き、そこで全てを手放した。
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取り戻した意識の中で、ヒカルはアキラの腕が自分の身体を抱きしめるのを感じていた。力強く、
けれど優しい腕の力が嬉しくて、背中に回した手に力をこめた。
ゆっくりと熱が退いてゆくのと同時に、心地良い疲労感がヒカルを襲い、ヒカルの瞼は落ち、荒い
息は規則正しい安らかな寝息に変わりつつあった。
夢の世界へ近づきながらも、ヒカルはアキラの手が額に触れるのを感じた。その手はヒカルの眠
りを妨げぬよう、そうっと前髪をはらい、額に優しくくちづけした。その暖かく優しい感触が、心地良
かった。唇は額から瞼へ、そして頬へ、顎へと落ち、唇にそっと触れ、それから耳元で低く優しく、
甘い囁き声を落とした。
「君が…好きだ。僕が想うのは君だ。君だけだ。ヒカル。愛してる…」
薄れてゆく意識の中で、アキラがそう囁くのを、確かに聞いたような気がした。
その一方でヒカルの頭は、その言葉はそれを望んだ自分が作り出した夢に過ぎないのかもしれ
ないと、感じた。けれど同時に、夢でも構わないと、思った。
その言葉が自分の作り出した幻でも、現実でなくても構わない。彼が熱く激しく自分を求めた事は、
それだけは本当にあった事だから。今、自分の上に覆いかぶさる熱い身体は確かに現実だから。
ヒカルはその熱と重みを心地良く感じながら、穏やかな眠りに落ちていった。
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目覚めると傍らに彼の姿はなかった。
見計らったように童が部屋に入り、熱い湯を湛えた盥と清潔な上布を差し出す。差し出された布を
受け取り、湯に浸して絞ったその布で身体を拭き清め、傍らに綺麗に畳まれていた衣を身につけた。
と、外から水音が聞こえた。
衣服をつけながらヒカルは水音のするほうへ向かった。
屋敷の外から聞こえるその音へと戸を開くと、ピリピリと冷たい空気がヒカルの頬を刺した。
暁は山の端にまだその気配さえ見せておらず、外は夜と変わらぬほどに暗い。
その暁の闇の中、自らの吐く白い息の向こうに、白い人影が見えた。
井戸から汲み上げたばかりの、さぞかし冷たいであろう水を、何度も、頭からかけて身を清めてい
るアキラの姿を、ヒカルはそこに見た。
彼は水桶を脇に置き、目を閉じたまま頭を振った。切りそろえられた髪から滴が散り、微かに煌くの
が見えた。濡れて顔にかかる髪を手でかき上げながらアキラは立ち上がり、顔を上げて目を見開き、
ヒカルを認めた。
薄明けの闇の中に仄かに浮かび上がる白い裸身を晒したまま、アキラは静かにヒカルと対峙した。
眼差しは凪いだ湖の水面のように静かなのに、その身体はいまだ燃えるように熱く、冷たい井戸水
さえ、その熱のために皮膚の上で揺らめくのが見えるような気がした。
しかし彼は、つと視線を断ち切り、井戸の横にかけてあった白い布をとり、軽く身体を拭い、ヒカルの
横を通り過ぎて、そのまま室内へと入っていった。
暁光の気配が、東の空から次第に夜の闇を追い落とし始めていた。西の空に沈みかけている白い
大きな月は、山々の頂に姿を隠すのが早いのか、朝の光に溶けて消えるのが早いのか。
冬の早朝の重く冷たい、だが清浄な空気の中にヒカルは足を踏み出し、先程アキラがいた井戸へ
と歩を進めた。滑らかな石の上に残されていた水は早や薄氷となり、ヒカルの足の下で幽かな音を
たてて崩れた。井戸から一杯の水を汲み上げて手を清めると、水は痺れるほど冷たかった。
(66)
「夜が明ける。」
背後から静かな声が聞こえた。振り返るとそこに、衣冠に身を整えたアキラが立っていた。
ついに陽光がその姿をあらわし始める。
アキラの視線を辿るように空を仰ぐと、白い光が山の端からこぼれ、枯草に降りた白い霜が、陽に
あたってキラキラと輝いた。
東の空に目をやっていたアキラはゆっくりとヒカルに向き直り、静かな笑みを向けた。朝陽を受けた
白い顔が眩しくて正視していることができず、ヒカルは彼の笑みから視線を外した。だがアキラはそ
のままヒカルの濡れた手をとり、白い乾いた布で拭いた。
アキラは井戸端から邸内へ促すように先立って歩き、それから足元のヒカルの裸足の足を見て、尋
ねた。
「なぜ沓を履かない?」
「無かったから。」
ヒカルが憮然として答えると、その返答にアキラは僅かに呆れたように微笑った。そしてヒカルを縁台
に座らせ、自らは跪いて別の布で彼の足を拭き清めた。
こうして彼の手で足を拭き清めてもらう事など、もう、二度とないだろう。
いや、彼の手が自分に触れる事は、もう、ないのかもしれない。
全ては限られた刻のこの仮宿でしか得られない事なのだから。
その終わりの時が、刻一刻と近づいてきている。
(67)
彼の後について部屋へ入ると、そこにはヒカルのための衣装が用意されていた。
言葉もなく、女房の手がヒカルに衣を着せ掛けていく。
アキラはそれを静かに見ていた。
真新しい衣に袖を通す。なれぬ布地の硬さが肌に心地良かった。
髪を整え冠をつけると、頬にかかる老懸の陰が少年の顔に精悍さを添える。
一枚、また一枚と衣を重ね、出仕のための正装に身を整えていくと、かつて、初めて検非違使と
して宮中へ上がった日のことを思い出す。期待と緊張と慣れぬ衣冠にガチガチに硬くなっていた、
幼い子供だった自分。都を守るのだと、その為に自分はここに在るのだと、そして自分には何が
できるだろうと、腰に挿した太刀を握り締め、緊張に震える手を押さえようとした。
そして都を守る検非違使となった自分はそこであのひとに会った。優しく美しく、けれど激しい魂
を持ったあのひと。あのひとを守りたかった。あのひとを守るのが自分の使命だと信じていた。
そのひとを、守りきることはできなかったけれど、それでもきっとオレにはまだなすべき事がある。
守らなければならないものがある。
目を見開くと、そこに一振りの太刀を差し出すアキラがいた。
息を止めてヒカルはその太刀を受け取る。手に馴染む懐かしいその重み。その重さを確かめる
ように両手でそれを捧げ持ち、それからゆっくりと腰に差した。
腰にかかるその重みに、ヒカルの顔が引き締まる。
朝陽の差し込む室内に、新しく生まれ変わった若く美しく凛々しい少年検非違使が、朝の光に
負けぬほどの強く清い眼差しで、すっくと立っていた。
(68)
真っ直ぐに前を見据えて、ヒカルは歩き出した。
そうしてこの仮宿に言葉にならぬ別れを告げながら、ヒカルは初めてこの屋敷の門をくぐり、外界
へと足を踏み出す。門の外に出たヒカルは、振り返ってアキラの顔をじっと見つめた。
もはや交わすべき言葉も無い。
別れの時を迫るように、朝がその明るさを増す。
どちらからともなく互いに向かって手が伸び、最後にただひとたび、友としての抱擁を交わす。
それぞれの熱い身体を確かめ合い、それからゆっくりと彼らは身体をはなした。
無言の笑みを交わしたのちに、ヒカルはアキラに背を向ける。
そうして歩き出したら、彼はもう振り返る事はしなかった。
屋敷の主は、ただ、去り往く少年検非違使の後姿を見送っていた。
振り返らず真っ直ぐ歩く後姿がだんだん小さくなり、通りの角を曲がるのを見届けてからやっと、
彼は通りに背を向けて門を閉め、霜と朝陽に銀色に輝く草を踏み分けて家の中へと戻った。
白く透明な朝の光が、誰もいない門を照らす。
都が次第に目覚め、朝のざわめきに充たされていく中、ひっそりと静まり返った屋敷が、ただ一人
取り残されていた。
<完>
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