落日 61
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早く帰りたい。
何かとてつもなく悪い事が起きているような予感がした。
いや、予感だけではない。都の様子を占った占盤には、はっきりとその兆候が示されていた。
早く戻らなければ。でないと手遅れになってしまう。
「手遅れ」がどんな事態を示しているのかまではわからない。わからないから尚の事、心が急い
て仕方がなかった。
彼の死を嘆く心と、残された者と残された状況を憂慮する心が入り乱れ、平常心など保てようも
なかった。だが不安定な心が成すべき事を成し遂げるのを妨げ、焦るほどに物事ははかどらず、
益々心が乱れた。
都でも名高い陰陽師でさえてこずるほどの恐ろしい鬼、と人々は口にしたが、何のことはない、
その陰陽師が名ほどの力を持たなかっただけの事だ。
早く帰らねばならぬと気ばかりが急いて、精神統一さえできぬ己自身が苛立たしい。苛立つという
ことさえ、妨げにしかならぬものだと知っているのに。こんなにも自分は弱い人間であったのか。
己の非力さが無念でならなかった。
それでもようやく哀しい魂を鎮める事ができ、この地はひと時の安らぎを迎え、自分もまた、長い
事縛り付けられていた務めから解放されて、己が在るべき場所へと戻る事を許される。
明日になれば、日がまた昇れば、ここを発ち、都に向かう事ができる。
長旅に備えて少しでも身体を休めねばならぬのに、目が冴えて、心が騒いで眠れない。
それでも眠らねばならぬと無理矢理に目を閉じれば、目の裏に最後に見た美しく優しい笑顔が
浮かび、それはそのままかつて見た花の宴の姿に移り変わる。薄紅色の桜花。うららかな春の
日差し。舞い落ちる花びら。季節は冬に移りつつあるというのに、目に浮かぶ記憶に、柔らかな
春の陽を感じたような気さえした。
けれども、都にも東国にも、日はまた昇りそして没するけれども、冬が来ればまた春が巡り花
は再びほころぶのだろうけれども、春の日差しのようだったあの人は、没したまま、二度と昇る
事はないのだ。
落日・完
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