裏階段 アキラ編 61 - 65
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「あの時は本当に怖かった。いきなりスーツ着たデカくて目付きのコワイおじさんに
引っ張っていかれたからさ。何されるかと思った。」
碁に関する以外の事に記憶力は自信がないと言っていた進藤だが、その時の事は
印象に残っていたようである。
もっとも棋院会館で再会した時すぐには思い出せなかったらしいが。
髪の色に特徴のある印象的な少年だった。
アキラと同じ年頃だけに、いろんな意味でアキラと対照的だった。
後になって少年と先生と引き合わせた事を後悔する事になる。
そうしてアキラと先生と、そしてオレとがほぼ時を同じくしてそれぞれの
その後の人生を変える事となるその少年と出会ったのだった。
出会ってしまったのだった。
碁会所に顔を出すと奥のいつもの席で、アキラが棋譜並べをしていた。
こちらが傍に近寄るのに気付くと、アキラは盤上の石を崩した。
そんなに石の数は多くなかったように見えた。
その段階で全力で立ち向かって来たアキラを封じ込めたのだとしたら、相当の手練だと
判断するしかない。だがその時点ではまだその相手と、あの少年がオレの中では
どうしても結びつかなかった。
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「何の棋譜を並べていたんだい?」
想像はついたが、意地悪くアキラに問いてみた。
「…いえ。」
言葉少なくアキラは目を伏せた。
アキラの胸の中に複雑な感情が渦巻いたに違いない。
小さな失望と大きな希望だ。
ただその時はプライドを砕かれた傷口が大きすぎて自分が抱えている感情を
持て余しているようだった。
「一局打つかい?」
「ええ、お願いします。…あの、緒方さん、」
「なんだい?」
「置き石なしで、打たせてもらっていいですか?」
「構わないよ。」
そうしてアキラは、何かを思い返すように、一手一手に時間をかけてその対局に
取り組んだ。
意識を研ぎすまし、何かを確認するように石を打った。
オレが打つ手を、強さを、他の誰かとのものと比較するように、
碁盤を挟みながらアキラはオレではない誰かを思い浮かべて打っているようだった。
それはけっして面白いものではなかった。
だが、必死に痛みを堪えて自ら自分の傷口を覗き込み、向き合おうとするアキラを
観察する事は興味深かった。
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アキラは変化した。
初めて自分が打つ碁に疑問を持ったようだった。
年相応に、それ以上に十分それを超える成長を遂げていると自分自身も
周囲の誰もが疑わなかった。それが自分と同じ年の少年とああいうかたちで
出会った事でそれまでの基準点が一気にあてはまらなくなったのだ。
混乱もあったはずだ。
普通の子供ならば自信を失い殻に閉じこもるか外部に対して攻撃的になるところを
アキラはよく耐えていた。
碁会所に行けば嫌でも先日の対局のギャラリーの者達の好奇の視線を一身に受ける。
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多くはアキラに好意的であるとはいえ、「上には上が…」「案外、塔矢アキラ以外にも
実力があってもアマチュアの大会に出て来ない子供が全国にはゴロゴロいるのでは」
と皮肉混じりに囁く者もいた。
雑音の聞こえる間を通り過ぎて彼の前に座った。
「あ、緒方さん、こんにちは。」
詰碁の手を止めて、アキラが顔を上げてニコリと微笑む。
耳に入れる価値のない言葉を聞き分け動じない芯の強さをこの子は持っている。
それは紛れもなく父親から受け継いだものである。獅子の子は獅子である。
碁会所にふらりとやって来て、今までこういう場所に来た事がないと言うその少年を、
アキラは初心者だと思い込んだ。
今でも彼はその事を悔いている。
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「彼は、一度も誰かと碁を打った事がないと言っていたんです。それで…」
「…ふむ。」
聞けば聞く程、その少年の正体に興味が湧く。
本を読んだだけの独学でいきなりそこに辿り着くとはどうしても思えない。
背後に指導者、それもかなりの高段者クラスの存在があると考えるのが自然だ。
「だとすれば、“打倒塔矢アキラ”と念じ、人知れずどこか山奥で仙人でも相手に
特訓したといったところか。」
アキラは少し可笑しそうに笑ったが、じきに真顔になった。
「…不思議な感触でした。」
「どんなふうに?」
「もしそうであれば、打っている間の彼から何らかの気負いを感じるはずなんです。
…それがまるでなかった。彼は、ボクがどう打っても、まるで自分は関係ないみたいな…
とにかく、他人事みたいに淡々と打つんです。」
「他人事…ね。それで、やはりその時のものをオレにやって見せてはくれないんだね。」
「…すみません。」
「やはり負けた碁を人に見せるのは恥ずかしいかい?」
「そうじゃありません!」
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