裏階段 ヒカル編 61 - 65
(61)
「とにかく、あんなやり方していたらアキラくん、一気に燃え尽きてしまいますよ。」
見当はついた。確か進藤がプロ試験の予選を通過していたはずだ。
「それもいいじゃないか。…芦原、お前はライバルはいるか?」
「えっ?」
いきなり聞かれて芦原は戸惑うように自分の手の平を見つめて指を折る。
「ええっと…倉田くんにはここんとこ全然歯が立たないし…戦績でいえば森下門下の白川さんとか
冴木くんとかが五分五分かな…あまりそういうの意識した事ないけど」
「…お前、ライバルの意味をわかっているのか?」
「ひどいなあ、じゃあ緒方さんのライバルって誰なんですか?まさか桑原先生なんてのはなしですよ」
おっとりしていながら時々芦原は強烈な一言も吐く。
思わず苦々しい顔で煙草を灰皿に押し付ける。それに構わず芦原は反撃できたと言わんばかりに
鼻歌を歌いながら上機嫌で碁を打ち続ける。
新しい煙草に火を点け、一息つく。
「…ライバル…か」
アキラがすぐ背後まで駆け上がってくるのは間違いない。
ただその時オレの頭の中に形にならない、まだイメージになり切らないものが浮かんだ気がした。
青白いモニターの向こうに存在した、アキラを手玉に取りより高みへと誘うような打ち手。
時や世俗の呪縛から解き放たれた、年令や性差の区別も掴みかねる優しく、それでいて力のある
不思議な石の流れ。
その名が浮かぶ前に頭を振ってそれを打ち消した。アキラと同じ霧の中に迷うつもりはなかった。
(62)
午前中の宿のロビーで煙草を吸っているとそこに進藤も休憩にやって来た。
小さな温泉街を見下ろすかたちになる山の中腹にある会場のホテルで、
ほぼ壁の全面が窓になっている外は初夏の若緑色の光で溢れていた。
その光に包まれている向い側のソファーに進藤は腰掛け、大きな欠伸をひとつつく。
頬と前髪を柔らかく光が照らす。進藤にはやはり陽の光がよく似合う。
「すげー、良い眺め。いい旅館だよね、ここ。へえ、遠くに海も見える…」
深く背もたれに体を預けて伸びをする。
夕べの記憶は彼の中に残っていない。酷使された肉体の痛みも若い回復力でどうとでも
なるらしい。彼にとってそれは大した事ではないのだろう。
朝、目を覚ました時進藤の姿はなかった。自分の部屋に戻り、着替えて
他の棋士らと宿の大広間で朝食を平らげたらしい。
「アキラくんは碁に関する仕事ではスーツを着用するのを心掛けているんだがな。」
進藤はいつまでたってもGパンにシャツやパーカーといったラフな格好のままだ。
もちろん棋士全員がいつも堅苦しい服装の訳ではないが、低段位者が囲碁以外で
自分を主張しようとしていると受け取られかねない。
ただひと頃のような派手なデザインや彩色のものはさすがに控えるようになったようだ。
大人しい子供が多い中で場所をわきまえず大声を出したり動き回っていた姿を思うと
今時の若者にしては十分落ち着いている方なのだろう。だがどうしてもアキラを基準にして
見てしまう。
(63)
「格好じゃないやい、中身だ。」
と進藤は豪語する。
そんな進藤に眉を潜める古参の棋士らもいるが、今や進藤が塔矢アキラと並ぶ
若手の最注目株である事は誰もが認めつつあった。
あるいはそれ以上の、という声を漏す者もいる。
それはアキラが幾分完成された独自の打ち筋を持つのに対し進藤はまだまだ
対局によって大きく変化し、時としてとんでもない大敗を食らう事があったが
それだけまだ伸びる余地と可能性を持っていると想起させた。
進藤にもその自覚があるのだろう。
自分にはまだ足りないものがあると。
その何かに辿り着く間では、格好とかその他の雑事に気を向ける余裕がないという感じだった。
仕事自体は夕方には終わる。進藤らはバスで最寄りの駅まで移動し、それぞれの帰路につく。
「…進藤、」
温かい日差しに短い休憩時間でもうとうとし始めた彼に呼び掛けた。
進藤が眠たそうに半分閉じた目蓋で顔を上げた。
「ん…?なに?」
「この仕事の後、…時間あるか。」
しばらく進藤はぼんやりとオレを見つめ、こくりと頷いた。
(64)
進藤はまだオレが進藤とsaiを同一人物だと確信している事を知らない。
アキラがそう感じている事は気付いているようだったが、彼等の間でその話はもう
交わされていないらしい。
正確にはアキラは進藤とsaiの識別を放棄した。そうすれば楽になると信じたのだ。
それは先生にも言えた。
進藤の中にsaiと共通する印象を持ちながらあえてそれに目を閉じ、
ただひたすら先生はsaiとの再会を静かに待ち、saiのために以前にも増して日々碁に対する
精進を重ねている。
日増しに追い上げて来る進藤の棋士としての実力がsaiの面影と完全に重なる日を待ちながら。
先生が帰国した僅かの合間を縫って、時おり進藤と会い、碁を打っているという話を
何かの拍子にアキラから聞かされた事があった。
「…それは本当なのか」
その時アキラはこちらの微妙な声色の変化を感じ取って一瞬怯えた。
「別に…隠していた訳では…。父も進藤も、特にその話をボクにしなかったので…」
その時感じたものは言葉ではうまく説明できない。
(65)
オレとアキラと同様に、先生もまた進藤を意識の中に捉えているとはっきりわかったのは
プロ合格を決めた進藤との対局を条件に新初段シリーズに出る事を決めた事からだった。
当時先生のスケジュールは多忙を極めていた。
僅かでも時間が空けば休養をとることを誰もが勧めていた。それをあえて進藤のために
自らが腰を上げて出向いたのだ。
先生がそこまで進藤に興味を持ったのもやはりアキラの挙動があったからだろう。
プロ試験の終盤、アキラが熱心にとあるプロ試験を受ける越智と言う院生のトップの少年の
家に指導碁のために通っているらしいと聞いたが、それが進藤を意識しての行動である事は
すぐにわかった。
だがアキラにとっての最大の関心事は進藤が合格するかというより進藤の本当の実力だった。
少なくとも進藤が対戦する相手の中で最も最強と思える者の戦力を更に増強させる事で
アキラなりの関門を設置したわけだ。
それを進藤が超えられなければアキラにとって再び心静かな安堵の日々が、そしてとてつもなく
退屈な日々が戻って来る事が約束されることを意味していた。
その日、進藤がその関門を抜けた日はアキラがいつになく激しかったのでよく覚えている。
「…来る…」
ぽつりとアキラが呟いた。
「…何か言ったか…?」
当然のようにアキラは答えず黙って首を横に振る。
何度目かの熱を代りにアキラに与える。それがアキラの期待するものの足下くらいには
及ぶものかどうかはわからなかったが。
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