誘惑 第一部 61 - 65


(61)
そしてもう一度ヒカルの胸元を掴んで、引き寄せる。
「オレがあいつをヤった時、どんなだったか教えてやろうか?
全然嫌がってなんかいなかったぜ?声をあげて、腰を振って、もっともっと、ってねだって。
AVなんかで見たどんな女よりも、淫乱で、貪欲で…」
だがどんな女よりも魅惑的だった。当たり前だ。ホンモノだからな。いや、違う。塔矢だからだ。
滑らかな白い肌。しなやかな身体。オレを煽り、追い立てる声。オレを呑み込み、締め付け、
くわえ込んで放さなかったあいつの内部。思い出しただけで背筋がゾクゾクして鳥肌が立って、
オレは勃起しそうになる。
女なんか知らない。ホンモノの女の身体なんか。知らない。だがあれ以上の女なんていないん
じゃないか、そんな気がしてしまう。自分でする時だってあいつを、あの時を思い出してしまう。
あいつが、あいつの声が、身体が、忘れられない。ヤられたのはオレだ。オレの方だ。あいつが
恐ろしくて、それでももう一度あいつが欲しくて、オレは前にも後ろにも進めない。
「あいつは魔物だ。
わかってんのか?あいつはそういう奴だ。あんな奴に本気になんかなったら地獄だ。
いい加減、眼を覚ませ。おまえはからかわれてるだけだ。」
「違うっ!!」
そう叫ぶと、ヒカルの目から大粒の涙がぱたぱたとこぼれ落ちた。
「違う、そんな事、ない。あいつはそんなヤツじゃない。塔矢を…オレの塔矢を侮辱するな!!」
泣きながら叫ぶヒカルに、和谷は一瞬怯みそうになった。だがその怯えを隠して、ヒカルを睨み
据えて、言う。
「塔矢も、言ってたぜ。『ボクの緒方さんを侮辱するな』ってな。」
「…ウソだ。」


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「ウソだ…そんなの、信じない。塔矢がそんな事、言うはずない。そんな…」
「ウソじゃねぇ。本当の事だ。」
「ウソだ!どうしてそんな事言うんだ!どうしてそんな…和谷の、和谷のバカヤロオッ!!」
追い詰めてるのは自分のはずなのに、コイツをこんな風に泣かせてやってせいせいしてるはず
なのに、なんでオレはこんなに悔しいんだ。負けたような気がしてならないんだ。
どうしてなんだ。
進藤と塔矢が似てるなんて思った事、一度もない。全然違う。
それなのに、どうして進藤に塔矢が重なるんだ。どうしておまえらは二人しておんなじ事を言うん
だ。オレなんか入るスキもないって、どうしてそんなふうに見せ付けるんだ。
「ウソだと思うんなら、塔矢に聞いてみろよ。確かめてみろよ…!」
悔しさと腹立たしさを誤魔化すように、ヒカルに言葉を投げつける。だが、涙をいっぱいに溜めた目
で全身を震わせながら見上げるヒカルに、和谷は怯みそうになった。
「出てけっ!!」
そうして和谷はアキラの言葉を今度は自分の口から吐き出す。
「おまえの顔なんか見たくねえ!おまえなんか、もう友達じゃねえっ!出てけっ!二度と来るな!!」
「和谷っ!!」
ヒカルの腕を掴んで追い立て、無理矢理ドアの外に放り出して、玄関の鍵を閉めた。
ヒカルがドアをがんがん叩きながら、自分の名を呼んでいる。和谷はドアノブを後ろ手にしっかりと
握ったまま、その呼び声に耐えていた。けれどドアを叩く力も、自分の名を呼ぶ声も、次第に弱く、
小さくなっていく。その様子に、和谷はなぜか心が痛んだ。
「和谷ぁ…」
ドアの向こうで進藤が泣いてる。泣かせたのはオレだ。
普段だったら、「何泣いてんだよ、おまえ」、って、頭を軽く叩いて慰めてやるのに。ホントは今だって
そうしてやりたいのに。いつだってオレはあいつが可愛いって思ってたのに。
進藤はきっと、大きな目に涙を一杯ためて、縋りつくようにドアを見上げているんだろう。そして、あいつ
が諦めたように袖で涙を拭いて、それからもう一度このドアを見上げてるのが、見えるような気がする。
けれどすっかり気落ちした足音はゆっくりと遠ざかって行き、和谷はただ一人そこに取り残される。
「ゴメン、進藤。」
呟くような小さな声で、誰にも届かない言葉を、和谷はぽつりとこぼした。


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どこへ向かうともなく、ふらふらとヒカルは歩いていた。
頭の中で和谷の言葉がぐるぐると回る。
「よかったぜ」「声をあげて、腰を振って、」「淫乱で、貪欲で、」
和谷が言ったように、そんな風に乱れるアキラを、ヒカルは知らない。
「あいつは魔物だ。」
自分の知っているアキラはそんなんじゃない。

自分がアキラを抱いた時の一番印象的な思い出は「好きだ、進藤」と、切なげに眉を寄せてヒカルを
見上げるアキラの表情だった。
それから、抑えようとして抑えきれずに漏れる切なげな吐息。
慎ましやかで、それでいて敏感で確かな反応。滑らかな皮膚の感触。
そんなアキラを、誰よりも、何よりも愛おしいと思った。愛しいという言葉を知ったのはその時だった。
何かをこらえているようなアキラの反応は妙にヒカルの保護欲をそそるものであり、愛おしいと思うと同時
に、自分の腕の中の存在を守ってやれるのは自分だけだと言うような気分になる。
時に、多少強引に出るヒカルに対して口にする拒否の言葉は、恥じらいにも似た反応の一つで、それは
決してヒカルを否定するものではなく、最終的にはいつでもヒカルのする事を拒む事はなく、身体にまわ
された腕の力が、求められているのだと言う満足感をヒカルに与える。
それなのに。


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「よかったぜ。」
アキラと自分と、両方を弄るような声が耳にこだまする。
「違う。」
思わず、ヒカルは声を漏らす。
違う、違う、違う。あいつはそんなヤツじゃない。
自分に言い聞かせようとする言葉が、それなのに何故だか空虚に感じられる。
和谷の言った事はただのでまかせではないのだろうという、妙な確信が、ヒカルにはあった。
自分の知っているアキラは、単にアキラの一面に過ぎないのだ。きっと。
「塔矢…」
知らず知らずのうちに、ヒカルの口から彼の想い人の名が漏れる。まるで胸中の思いが溢れ出て
しまったように。
そして脳裏にその人の姿を思い描く。

碁盤を挟んで相対した時の真剣な表情。碁石を挟む白い指先に、いつもその度に見惚れてしまう。
その真剣な眼差しはいつの間にか盤上の石の並びを離れ、自分を見つめている。
見つめる熱い眼差しと、進藤、と呼ぶ、熱く掠れた声が、彼が自分を欲っしている事を語っていて、それ
が嬉しい。好きだ、と、耳元で囁かれる甘い声を聞くと、もう何も考えられなくなってしまって、自分は
彼の望むままに身体を開いてしまう。
それから、例えば二人で話している時に、ほんの少しからかってやると、照れて、拗ねて、頬を赤らめ
ながらぷいと顔をそむける。そんな子供っぽい横顔が好きだ。
そして時折、ほんの時折見せる、もの寂しげな、頼りなさげな、寄る辺ない子供のような表情を、自分
を見上げる、憂いに満ちた黒い瞳を、思い出しただけでも胸が痛くなる。
塔矢。
塔矢、塔矢、塔矢…オレの…オレの、塔矢。


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それなのに、耳には和谷の言葉が厳しく投げつけられる。
「淫乱で、貪欲で、」
知らない。そんな塔矢は知らない。オレの知ってる塔矢はそんなじゃない。
でも、それはきっと自分が知らないだけなのだ。
自分が知らない塔矢を知っている人間が、少なくとも二人はいる。
塔矢が、自分には見せない姿を、自分以外の人間に晒している。晒した事がある。
胸がじりじりと焼け付くようだ。
そんな塔矢なんか知らない。
想像もしたくない。
それなのにヒカルの脳裏にはかつて見た刺激的な映像に、アキラの声が、艶をおびて潤んだ瞳が、自分
を見つめる憂いに満ちた眼差しが、重なる。
その瞳が自分だけでなく他の男にも向けられたのだとしたら。
「どうして、塔矢、」
責めるように彼の名を呼んで、ヒカルは空を睨んだ。
ヒカルの足はいつの間にかアキラのアパートを目指して進んでいた。



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