誘惑 第三部 61 - 65


(61)
「…ごめん。」
よくわからないけれど、ヒカルが泣き出したのは自分の言葉のせいらしくて、アキラは途惑いながら、
ヒカルを宥めるように謝った。
けれど、ヒカルは涙をこらえようともせずに俯いて首を振った。

謝るのはおまえじゃない。オレの方だ。
ごめん、塔矢。ごめん、佐為。
おまえが追っかけてた佐為を、乗っ取っちゃったのはオレだ。
ずっと佐為と打ってたこの碁盤でおまえと打つのは、佐為がいたらこんなに嬉しい事はないのに。
塔矢、おまえに追いつくために、佐為、おまえと打ち続けた。
絶対追いついてやる、前だけを真っ直ぐ見てる塔矢の目をオレに向けさせてやるって。
佐為、おまえを追いかけてる塔矢を追いかけて、掴まえて、オレの方を向かせてやるって。
でもオレが碁に夢中になりすぎて、オレがオレの碁と塔矢の碁ばっか追っかけてる内に、佐為は
いっちまった。
オレは生身の塔矢は掴まえたけど、まだ塔矢の碁を掴まえられない。まだ、追いつけてない。
だから、まだ言えない。まだ話せない。

ヒカルは碁盤の表面をそっと撫でながら、心の中で思った。
佐為。いいだろ?おまえと打ち続けたこの碁盤で塔矢と打って。
まだオレはおまえには全然届かない。もしかしたらオレ、おまえには一生辿り着けないのかもしれ
ないけど、でも、オレ、打つから。一生、打ち続けるから。塔矢と一緒に。
だから、見ててくれよ。オレがどこまで塔矢に追いつけたか。


(62)
「泣くな、進藤。」
「…あん時はさ、おまえに泣き顔なんか見られたくねーって、思ったけど、でも、いいんだ、もう。
だってさ、今、おまえに泣き顔見られたって恥ずかしくなんかねえもん。おまえには泣き顔だって、
もっと恥ずかしい顔だって散々見られてるし。」
「し、進藤…」
「それにオレ、塔矢の泣き顔だって、恥ずかしい顔だって、イヤラシイ顔だって、一杯見ちゃってる
もんなっ。」
「進藤っ!」
乱暴に涙を拭いながら、アキラに向かって照れ隠しのように笑った。
「へへっ…」
「キミって奴は…」
それなのに、それでもまだ言えない。
恥ずかしい事なんてない、そう思っててもまだ言えない事もある。
「……ごめん、塔矢。」
「…わかったから……もういい。いいんだよ。ボクは。いつでも、ずっと待ってるから。」
「塔矢……」
「ホラ、打つんだろ。いつまでもべそべそ泣いてるな。」
「うん、」
「ニギるよ?」
そう言ってアキラが一掴みの白石を握る。
ヒカルは鼻を啜りながら、黒石を置いた。
アキラが白石を数えて、ヒカルに告げる。
「キミが先番だ。」
「それじゃあ、お願いします。」
「お願いします。」


(63)
序盤、穏やかに進行していった盤面だったが、更に進んだある局面、全く予想もしていなかった
場所へと打たれたヒカルの一手に、アキラの手が止まった。

―この手は…?

ヒカルの意図を探りながら、意識の一方でアキラは過去の記憶を辿った。
どこかで覚えのあるこの感覚。
いつ、どこでだったろう。
時折、進藤の碁の中に出現するこの手。
盤面を撹乱し、思惑を隠した誘うような手。
それは彼のヨミの深さと、定石にとらわれない思考の斬新さが編み出すもの。
だから彼の盤面は時々展開が、進行が読めない。
例えば洪秀英との一局。あの一手に似ている。
ではボクが今感じたこの感覚はあの棋譜を見たときの記憶か?
いや、違う。そうじゃない。棋譜を見てのことでない。確かにこの身に直接感じた事がある。
それは。

3年前の中学囲碁大会の三将戦。
そうだ。違うんだ。あれは。
序盤までは変わらなかった。何の違和感も感じなかった。
ボクが碁会所で打った、ボクが恐れ、憧れ、がむしゃらに追った進藤ヒカル、そのままだった。
けれどあの一手。
今思い起こせば、あの一手から流れは変わった。
まるで別人のように彼の手は崩れていった。
別人のように。


(64)
ボクの知る二人の進藤ヒカル。
あの時、ボクの目の前で二人は入れ替わったのだ。そうとしか思えない。
でも、そんな。
そんな事って。

盤面を追っていたアキラの思考が途切れ、十九路の上の白と黒の世界から現世へと引き戻される。
「進藤、キミは…」
手が止まり、無意識に言葉がこぼれた。
その言葉につられてか、ヒカルがちらりと窺うようにアキラを見上げた。
キッとアキラの眉が強くなる。

だがボクはそう簡単にキミの誘いに乗るつもりはない。
そう思って、次の手を放つ。
その一手にヒカルは唇を引き締め、顔を上げてアキラを見る。
盤を挟んで二者の視線がぶつかり合う。
互いに睨み合い、攻め合うように、厳しい音をたてて石が置かれていく。
両者の息が乱れ、頬は興奮に紅潮し始める。


(65)
けれど、盤面を睨み、石の流れを、その行く末を追い、深い思索に入り込みながらも、その一方で
アキラの意識は分離し始めていった。今、自分は確かに碁盤に向き合い、白と黒の石の描く世界に
意識を集中させている筈なのに、意識の一方は盤面を離れ、浮遊していく意識は、自分と、更に盤
を挟んで座るヒカルを、はるか上方から俯瞰する。

もしかして、もしかしたらパズルのピースのほとんどをボクは既に手にしているのかもしれない、と、
浮き上がった一方の意識の内でアキラは思う。
集めたピースから見える信じがたいその絵は、けれどそれが真実なのかもしれない。
そしてボクはまたキミを追いながら、けれど湧き上がるその問いを封じる。
何度も、何度も繰り返した問い。
キミは一体何物だ?と、押さえがたいその問いを、アキラは封じ込める。

なぜならボクは言ったのだから。
キミの打つ碁がキミの全てだ。それだけでいい、と。
だからキミは応えてくれた。
いつか、話すかもしれない、と。
だから今はもういい。
ボクはボクの言葉を取り消すつもりはない。
「いつか」なんて日はもしかしたら永久に来ないのかもしれない。けれど、それでも構わない。
過去のキミが何者であれ、今ここに在るキミは、きっとキミの全てを賭けてボクに向き合っている。
だからボクもボクの全てを賭けてキミに立ち向かう。
どんな手でも放ってみろ。受けて立ってやる。
これがボクだ。ボクの全てだ。超えられるものなら超えてみろ。
来い、進藤。ボクはここにいる。



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