光明の章 61 - 65


(61)
ヒカルの心配をよそに、メールのやり取りは無事に成功した。和谷のおかげで、
とりあえず基本的な設定は済ませることが出来た。本当に和谷様サマだった。
「サンキュー!マジで助かったよ」
「講師料取るからな」
「ジュースくらいならいいけど。そういや和谷、里帰りの準備は済んだのかよ。
 今週の金曜日だろ」
唐突なヒカルの言葉に、和谷は苦笑する。
「準備ったって、着替えを持ってくだけだぜ?じーちゃんの家には碁石も碁盤も
 揃ってるから、本当なら手ぶらで行ってもいいくらいだ。あ、でも土産は持っ
 ていくよ。『空飛ぶ子ドラ』」
「空飛ぶって…なんだよそれー?」
「知らねーの?羽田空港でしか売ってないドラ焼きだよ。うちのじーちゃんの大
 好物。ちなみにオレの家族もみんなドラ焼きが好きだぞ」
その後対局場に場所を移し、延々と好物話に花を咲かせていたところへ、森下門
下の白川道夫が襖を開けて入ってきた。二人を見るなり、穏やかに微笑む。
「キミたちはいつも早いね、感心するよ」
「お疲れ様です」
すぐに頭を下げる和谷に続き、ヒカルも慌てて挨拶をする。
「白川先生、こんにちは」
「こんにちは、進藤君。先程上の階に寄ったんだけど、是非ともキミに渡すよう
 にと預かってきた物があるんだ」
「オレに?」
ヒカルは腰を上げ、薄茶色のスーツを着ている白川の前に立った。はい、と手渡
されたのは、自分の名前が書かれた茶色の封筒だった。中を確認すると、新幹線
のチケットと、宿泊するホテルのクーポン券が入っていた。
「5月3日、東北のイベントに行くんだってね。新幹線はS駅まで。着いたら、向
 こうの支部の方たちが迎えに来ているそうだよ」
「そっかー。なんだかドキドキしてきたな」
胸に手を当てもはや緊張し始めるヒカルの背を、白川は笑いながら軽く叩いた。
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ。ところで進藤君は知ってるのかな?」
「何ですか?」
「進藤君と同じ日に、塔矢君が塔矢先生と一緒に、韓国に発つそうだけど」
「そうそう、オレもそれ、お前に言おうと思ってたんだ」
すっかり忘れていた和谷が、白川の言葉にポンと膝を打つ。ヒカルは耳を疑った。
「……いえ、初耳…です」
白川はスーツのしわを伸ばしながら碁盤を囲む位置に正座し、言葉を続けた。
「ところがおとといの朝、塔矢君が自宅で突然倒れたらしくてね。病院に運ばれて大
 変だったそうだよ。そんな状況だから、塔矢君の韓国行き自体取り止めになる
 かもしれないって、みんな上でやきもきしていたよ」
「おとといの朝…」
そういえばアキラは別れ際、ちょっと疲れていると言っていたではないか。
衝撃のあまり、ヒカルはその場にへなへなと座り込んだ。


(62)
月明かりに照らされ、飛び石に薄く影が伸びる。緒方は自分の影を踏みながら玄
関前へと立ち、ふと腕時計に目をやった。
午後八時半過ぎ。病人の見舞いに訪れるには少々遅れをとったような時間帯だが、
多忙な緒方にしてみればこれでも早めに駆けつけた方なのだ。
それに、─これは緒方の個人的な解釈なのだが─昼間よりは夜の方が何かと都合
が良い。
緩やかな風が足許をかすめ、周辺に群生している業平竹の葉をさわさわと揺らし
ていく。誘導灯の仄かな明かりに夜行性の羽虫たちが集い、乱舞する。
緒方は導かれるように振り返り、頭上に輝く真円に近い月を見上げた。檸檬色の
淡い光を放ち夜の全てを支配するその凛とした姿は、これから会いに行く少年の
美しくも潔い面影と重なる。
アキラの部屋は、竹柴垣の向こうにある。花水木の枝の隙間から明かりが漏れて
いるので、まだ眠ってはいないらしい。
緒方はインターフォンを押した。少年時代から通い詰めの家ではあるが、囲碁以
外の用事で訪れるとなると、いまだに敷居が高い。
『どちらさまですか?』
「夜分に申し訳ありません、緒方です」
『まぁ、精次さん?──今開けますから、少しお待ち下さいね』
程なくして玄関の照明が点灯し、扉の鍵を回す音がした。
カタカタとガラスを震わせながら戸が開かれ、行洋の妻、明子が白い割烹着姿で
緒方を出迎えた。
「今晩は、精次さん。うちの人は今外出中なのだけれど、何か急ぎの御用でも?」
「いえ、今日は先生ではなく…アキラ君のお見舞いに」
言いながら緒方は、小さな紙袋を明子に手渡した。アキラの好物である某有名店
の洋生菓子が4個入っている。閉店前のデパートの地下で購入したものだ。
「わざわざ…気を遣わせてゴメンなさい、でもよく冷えてて美味しそう。精次さ
 ん、あの子の好物をまだ覚えていてくださったのね。さ、お上がりになって」
「失礼します」
緒方は軽く会釈し、主不在の家に上がり込んだ。行洋の留守を狙って来たなどと
は、口が裂けても言えない。
「先に、アキラ君の様子を見てきます」
「そうしていただける?その間にお茶の準備をしますから」
「すぐにお暇しますので、お構いなく」
台所へと向かう明子に一応そのように声をかけ、緒方はアキラの部屋へ続く渡り
廊下を慎重に進んだ。一歩一歩進む毎に、古廊下の板がみしりと軋んだ音を立て
る。家人に気付かれぬよう奥の部屋まで辿り着くのは至難の業だろう。まるで鴬
張りのようだと緒方は苦笑する。
アキラの部屋の前に立ち、緒方が声を掛けようとしたその時、
「どうぞ」
と先に入室を促す声がした。緒方は笑いながら障子を左右に開く。


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途端、布団の中で半身を起こした状態のアキラと目が合う。アキラは読みかけの
本を閉じると、肩からかけていた紺色のカーディガンに袖を通し、緒方に先制攻
撃を仕掛けた。
「何しにいらしたんですか?父は出かけてて、いませんよ」
辛辣な物言いとは裏腹に、アキラの表情は柔らかい。緒方がどのような反応を返
してくるのか、確かめたがっているようだった。
「──可愛くないな。キミのお見舞いに決まってるだろう。朝まで一緒にいた人
 間が昼には病院に運ばれたと聞けば、心配しないわけがない。オレにもそれく
 らいの良心はあるんだぜ、アキラ君」
「良心、ですか」
「そうだ。なけなしの、な」
言いながら緒方は、敷かれた布団の端を踏まないよう畳の上に直に腰を下ろした。
枕元に置かれたお盆。その上の水差しと、薬の袋がどうしても気になってしまう。
「医者はなんて言ってた」
「……笑わないって約束してくれますか」
珍しくアキラが惑うような表情を見せた。緒方はとりあえず頷く。
「栄養失調だそうです」
「──なんだって?」
「それと、心因性ストレス。でも脳波に異常はなかったので、充分な栄養補給と
 睡眠時間さえたっぷりとれれば、大丈夫だと言われました」
「その薬は?」
「安定剤と、睡眠薬です。ボクが今まで眠れずにいた話をしたら、お医者様が処
 方してくださったんですけど、どうやら必要ないみたい…」
「今は、ちゃんと眠れるんだな」
「ええ。実は日曜日、緒方さんと別れてからタクシーの中で少し眠ったんです。
 あの日から、普通に眠れるようになりました」
布団の上で、アキラは左手を握り締めた。繋いだヒカルの手の、泣きたくなる程
優しい温もりが瞬時に甦る。自分の身体は、ずっと、欲しいものを欲しいと素直
に要求していたのだ。それを無理して抑えるから、支障が出る。
「棋院の連中が反省してたよ、キミを働かせすぎたって。対局のない日に、積極
 的に仕事を入れてたんだって?」
緒方の言葉をアキラは黙って聞いていた。その沈黙を、緒方は肯定だと解釈する。
「仕事熱心なのはご立派だが、のりしろのないスケジュールはどうかと思うぜ。
 挙句の果てに倒れて、少なからず周囲に迷惑をかけている。──キミらしくな
 いな」
「……何か、していないと、気が狂いそうだったんです」
「…どういう意味だ」
「別に、言葉どおりの意味ですけど」
「フン、まぁいい。それで韓国行きはどうなるんだ?」
「父は、ボクを連れて行きたがっているようです」


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「キミを一人にしておくと、何をしでかすかわからないからな」
緒方の言葉に揶揄が混じる。アキラは軽く緒方を睨んだ。
「───」
「本当の事だろう。それともこうなったのはオレのせいなのか」
「…違うとも言い切れない」
「それは光栄だな。いつの間にか片棒を担がされて不愉快だったが、それなりに
 評価はしてもらえてるようだ」
「…意地が悪いんですね」
「これでもオレはキミに惚れているんだ。もっと利用してくれても構わんよ」
「嘘つきは嫌いです」
アキラの返事に緒方は微苦笑のまま立ち上がり、障子を開け、廊下へと出た。
窓ガラスの前に進んだ緒方の手の中で、かちりと金属音が鳴る。どうやら煙草を
吸う為に廊下へ移動したらしかった。
「ここで吸えば良いのに」
妙な気遣いに首を傾げるアキラへ、緒方は背を向けたまま答えた。
「病人の前では一応遠慮する。たとえキミの許可を得ても、布団に匂いが染付い
 ていたら不快に思うだろう」
自分ではなく明子への気遣いだと知り、アキラは緒方さんらしい、と小声で納得
した。
月の光が充分に届く眩しい夜。淡い光を受け、濡れた夜の庭は薄青に輝いている。
憑かれたように外を見入る緒方の隣に、いつの間にかアキラが立っていた。その
手には陶器製の灰皿が握られている。
「それは自分のか」
「ええ」
「家では吸わないんじゃなかったのか」
アパートで喫煙している話は聞いた事がある。未成年とはいえ、一人暮らしの男
ならば誰でも手を染める初歩的な悪事だ。
「これは吸いたくなった時の為に準備していた物です。まだ未使用ですよ」
アキラは碧緑の灰皿を緒方に手渡した。緒方はそれに灰を落とすと、再び庭へと
目をやる。
「こんなに綺麗なものなのか──夜に来ても、庭を眺めた事なんて一度もなかっ
 たからな」
アキラの目にはいつもと変わらぬ庭の景色だが、見慣れているものにはわからな
い何かが、緒方の心を捉えているらしい。
以前のアキラならその何かに気付き、緒方に同調できただろう。アキラと緒方は、
体の奥深い場所に、似たような闇を抱えている。故に、互いの寂寥に惹かれ合う。
だがアキラはヒカルと出会い、違うものによって満たされる喜びを知った。再会
してより確信した。もう、ヒカルを知らなかった頃には戻れない。戻りたくない。
「緒方さん。ボク、進藤に会いました」
「…いつ」
「日曜日。緒方さんがタクシーを降りた後、偶然進藤を拾ったんです」
「へぇ」
緒方の眉があがる。口許に浮かべた笑みが、奇妙に歪んで見えた。


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「よくもまぁ───いや、いい」
何か皮肉を返そうとした緒方だったが、早々話の腰を折るのは大人気ないと思い
直したのかそのまま言葉を飲み込んだ。
緒方の言わんとする事の見当は概ねついている。
“よくもまぁ、自分との後に何もなかったような顔をして──”
そう言いたいのだろう。
アキラは夜の庭へと目線を移した。部屋から漏れた明かりによって、庭の一部分
がくっきりと切り取られたように明るい。その境界線を一歩越えると、薄青い闇
が庭園全体を覆っている。
今の自分は、果たしてどちらの世界が相応しいのだろうか。
「…ボクは進藤が自分の意思で接触してくるまで、いつまでも気長に待つつもり
 でした。追いかけて手を引くことは簡単です。彼は躊躇いながらもボクに従っ
 てくれるでしょう、でもそれじゃ意味がない。ボクは進藤になりふりかまわず
 追いかけてもらいたかった。世界中で一番必要とされる存在として、確かな証
 拠が欲しかったんです」
「つまり、愛されたかったわけだな」
緒方は煙草の火をもみ消すと、灰皿を廊下に置いた。
「愛してくれるなら誰でも良かった──か?」
眼鏡を外して目を眇めた緒方のその言葉に含まれる冷たい響きが、アキラの表情
を曇らせる。気付いた緒方が軽く笑った。
「図星だからってそんな顔をしなくてもいい、キミを責める権利なんてオレには
 ないからな」
「緒方さん」
アキラは静かに緒方の腕を掴んだ。
「ボクは」
「───?」
俄かに湧き上がった感情をぶつけてしまいそうになったが、寸でのところで思い
留まった。自分と同じ場所に空洞を抱えている緒方を、このまま一人残していく
のは忍びない。そんな気持ちを伝えたところで、矛盾していると指摘され冷笑さ
れるのがオチだ。
「…なんでもありません」
アキラの逡巡に、緒方は違う意味を嗅ぎ取ったようだ。
「進藤、か。そんなに具合がいいのか、あの体は」
俗っぽい挑発には乗らずに、アキラは真実を述べた。
「ボクがライバルと呼べる人間は彼だけです」
「キミがオレに逃げ込んでいる間、誰かに寝取られでもしないかと期待してたん
 だが…残念だったな」
悪趣味な、と緒方を嗜めた時、廊下の軋む音が近づき、その場の緊張を壊した。
「お茶の準備が出来たの、良かったら居間の方にいらして。アキラさんも。そう
 そう、精次さんからお見舞いにお菓子をいただいたのよ、あなたの大好物」
朗らかな明子の声に促され、アキラはぎこちなく緒方に頭を下げた。
「ああ、お気遣いなく…そろそろお暇しようとしていたところだったんですよ。
 アキラ君が元気そうで、本当によかった」
行洋の愛弟子という仮面をかぶり明子と並んで廊下を歩く緒方の後姿を、アキラ
は無表情のまま見送った。



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