日記 61 - 65
(61)
「また、お前か…今度、やったら入れないと言っただろう?」
玄関先で、緒方は盛大に溜息をついた。
「いいじゃん。今日は塔矢も一緒だし、大目にみてよ。」
ヒカルは、緒方が本気で怒っていないことをわかっている。アキラの腕を引っ張って、
遠慮もなく奥へと入って行った。
「お…お邪魔します。」
ヒカルに引っ張られながら、アキラが気まずそうに挨拶をした。ヒカルに、強引に連れて
こられたのだろうか。緒方は、再び、アキラがこの家にやってきたことを嬉しく思った。
ヒカルに、心の中で感謝した。口に出してはとても言えないが…。
「あ…先生、ネット碁してたんだ?」
ヒカルがパソコンの画面を覗き込んだ。アキラもヒカルの後ろから、画面を見た。
「ああ、でも見てただけだが…お前達もやるか?」
「いえ、ボクは…進藤はどうする?」
ヒカルは、ちょっと考えて、それから首を振った。また、そんな悲しそうな顔をして…。
緒方は胸に痛みを感じた。ヒカルが、前に言っていた『大切な人』と、関係があるのだろうか。
ヒカルが、寂しげな表情をするときは、大概、昔のことを思い出している。
アキラの方に視線を向けると、やはり、自分と同じように痛ましげにヒカルを見つめていた。
「すいません、緒方さん。パソコンお借りします。」
アキラは、そう言うとキーボードを叩き始めた。画面が切り替わる。何かを調べて居るようだった。
「ほら、進藤。これ…」
アキラがヒカルに呼びかけた。
「あ…それ…」
パソコンの画面一杯にリンドウの花が、映し出されていた。
(62)
ヒカルの顔が明るくなった。
「きれーだな。これが、ホントのリンドウ?」
「うん。本物はもっと奇麗だよ。」
ヒカルは、画面に埋められた瑠璃色に見とれていた。その表情にアキラは、安心した。
「進藤は、その花が好きなのか?」
緒方が声をかけた。
「うん。」
「それなのに、本物をまだ見たことがないのか?」
ヒカルは、笑って答えた。
「だって、オレ、リンドウの絵に一目惚れしちゃったんだよ。花屋に行ったら、
まだ、早いって言われてさ…すげーがっかりだよ。」
ヒカルの声も表情も明るい。
だが、アキラは、ヒカルが困ったような情けないような表情を一瞬浮かべたのを、
見逃さなかった。緒方も、自分の何気ない一言がヒカルを傷つけたことに、気づいているようだった。
「あ…なに?この花言葉って?」
アキラは、画面の隅にあるそれをクリックした。『正義』と言う文字が出た。
「せいぎ〜?」
「同じ花でも、いろいろ解釈があるみたいだよ。」
アキラが、検索をかけると、様々なサイトが羅列された。片っ端から、クリックした。
「正義とか勝利とか…らしくねー…ような…らしいような…」
ヒカルが、クスクスと小さく笑った。その眼差しはどこか遠い。
誰のことを考えているの?――――――聞きたい気持ちを堪えて、また、一つクリックした。
「あ…」
――――――あなたの哀しみによりそう
突然、ヒカルの目から涙が零れた。
(63)
どうしよう…涙が止まらない。塔矢も先生もびっくりしてる。早く、止めなきゃ…。
そんな、つもりじゃなかったのに…。ただ、奇麗な花だから、好きになったんだよ。
「う…うぅ――――……」
堪えようと噛み締めた唇から、声が漏れた。あの日から、何度泣いたかわからない。それなのに、
まだ、こんなに涙が出る。力が抜けて、ヒカルの身体は、ずるずると崩れた。
アキラが、ヒカルの横に跪いた。そして、しゃくり上げるヒカルの背中をそっとさすった。
「無理に堪えない方がいいよ。」
「ご…ごめ……」
上手く息が出来ない。
「どうして、謝るの?」
「だ…だって…オレ…ごめ…」
どうして、謝るのか……ヒカルにもよくわからない。
ただ、あの言葉が、心の奥に隠していたものを引きずり出したような気がした。
「花言葉をいちいち真に受けるな。『花は、奇麗だから好き』それで十分だろ。」
緒方は一言そう残して、その部屋を出た。
ヒカルは、独りが嫌いだ。独りで居ると寂しくて死にそうになる。でも、何故だろうか?
アキラと居ても、緒方や和谷達と居ても、時々、どうしようもなく寂しくなる。本当に、ごくたまにだが……。すぐ側に、人の温もりを感じるのに、それだけでは埋められない
孤独を感じた。
「オ…オレ…寂しい…塔矢や…先生と居ても…寂し…………ごめ………」
ヒカルは、突然、頬に冷たい物を押しつけられて、顔を上げた。緒方が、アキラと同じように、
自分の傍らに屈んでいた。ヒカルは、その冷たい物を受け取った。
(64)
アキラは、ヒカルの手の中の物を見た。清涼飲料水の缶だった。緒方は、こんな物を
飲まない。ヒカルのために用意しておいたものだろう。
「恋人といたって、友人といたって、寂しいときは寂しいし、悲しいときは悲しいんだ。
誰だってそうだ。お前だけじゃない。」
緒方が、優しくヒカルを諭した。
「だから、お前が罪悪感を感じる必要はない……」
「だいたい、お前はつまらないことで泣きすぎだ。花言葉みたいなあんないい加減な物に、
簡単に傷ついてどうする。以前のお前は、もっと図太い奴だったぞ。」
緒方の遠慮のない言葉に、ヒカルは泣きやんでちょっと笑った。
「まあ、大人になれば泣きたくても泣けないことが多いから……今の内に泣いておくのも
悪くはないがな…」
緒方は、ヒカルの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
ヒカルが、冷たい缶を目に当てた。
「冷たい……」
暫く、その冷たさを楽しんだ後、缶のプルを押し上げた。シュッと小気味よい音がして、
炭酸のはじける音が聞こえた。
アキラは、やはり緒方は大人だと思った。自分とは違う。自分は、ヒカルに優しい言葉しか
かけることが出来ない。緒方の言葉が、冷たいと思っているわけではない。
ただ、自分には出来ない―――――――そう思った。
『早く、大人になりたい……』
ヒカルを受け止めることが出来るように…今は、まだ、無理でも……。
(65)
二人でアキラのアパートに戻ると、浴室で軽く汗を流してから、ベッドに潜り込んだ。
アキラは、ヒカルにタオルケットを肩までかけてくれた。そして、灯りを消して、ヒカルの隣に
自分も身体を滑り込ませた。
「今日は、ゴメンな…」
ヒカルは、アキラにわびた。アキラにも緒方にも迷惑をかけた。アキラ達を振り回して、
勝手に傷ついて大泣きして、穴があったら入りたいとは、このことだ。
緒方とアキラを仲直りさせることが、目的だったはずなのに……。自分でそれを
台無しにしてしまったような気がする。
「オレ…さいてーだ…」
溜息しか出てこない。緒方の言うとおり、以前の自分は、もっと図太い奴だった、と思う。
それが、いつの間にか泣き虫になってしまった。佐為のせいだ……!あいつが黙って居なく
なるから……!もう大丈夫だと思う度、まだ、立ち直っていない自分の姿が、何かの
弾みで現れる。自分は、あの日から、ずっと泣き虫のままなのだ。
変わるのは、悪いことだと思わない。けど、どうせ変わるなら、いい方に変わりたい。
もっと、強い人間に……したたかになりたいんだ。
「うん……本当に困る…」
アキラの言葉にヒカルは、ますます落ち込んだ。「ゴメン」としか言えない。
「キミの泣き顔が可愛くて、すごくキスしたくなって困った…」
ぼんやり見えるアキラの顔に、イタズラっぽい笑みが浮かんでいる。ヒカルは、ちょっと
驚いた。アキラがこんな冗談を言うなんて…。
「もう…!オレ、真剣に謝っているのに…!」
ヒカルが起きあがって、アキラに手を振り上げる。むろん、本気じゃない。照れ隠しだ。
アキラが腕を伸ばした。ヒカルの腕を掴んで、そのまま自分の胸の上に引き倒した。
「冗談じゃないよ…本当にそう思ったんだ。すごく、困った。」
アキラがクスクス笑っているのが、直接、耳の中で大きく響いた。
「さあ、もう寝よう。」
ヒカルは、アキラの心臓の鼓動に安心して、いつの間にか眠ってしまった。
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