失着点・龍界編 61 - 65
(61)
緒方は碁盤のある和室で沢淵と睨み合い互いに間合いを取り合う。
それぞれが相手にある程度心得があることを見越しての事だった。
緒方は心の底から怒りに燃えた形相で見据え、
沢淵は対照的にこの状況を楽しむように不敵な笑みを浮かべていた。
「…こちらでの勝負は、負けませんよ…」
沢淵は両手を構え上げ、再びニヤリと笑った。
ヒカルは体が小刻みに震えて来るのを必死で堪えてアキラの体を抱き締めた。
「塔矢…!?」
こういう場合揺すって良いものかどうか分からず、とにかく
肩を抱いて声をかけ続けた。
「塔矢!?…塔矢ア!!」
和谷と伊角が息を飲んで心配そうに見つめる。
「と…お…」
ヒカルの涙がポタポタとアキラの頬に落ちて流れていった。
塔矢に何かあったら、そう考えただけでヒカルの周囲から全ての
ものが色を失って消えて行く。ヒカルは地面を失うような目眩を感じた。
その時睫が微かに揺れた。そして静かにアキラが目を開けた。
「…進…藤…、」
「…塔矢ア…!!」
止まらない涙が伝う頬をヒカルはアキラの頬に押し付けた。
アキラの細い体を力一杯抱き締めた。
緒方は横目でヒカルとアキラの無事を確認し間合いを詰めた。
(62)
ふいに沢淵の拳が顔面に向かってくり出され、緒方がそれを防ごうと
した時、立続けに膝を2発腹に入れられた。
緒方が前屈みになった時に沢淵がさらに顔面に一発入れようとしてきたが、
それを肘で防いで今度は緒方が沢淵の脇に膝を一発を入れる。
よろけた沢淵の顔にもう一発入れ、お返しに膝を腹に入れ、倒れかかった
沢淵の襟首を掴みもつれ合いになって互いに相手を壁にぶつけ合う。
そのまま激しい殴り合いとなった。
三谷が、黙ってそれを見つめていた。
ヒカルはまだ意識がはっきりしていない様子のアキラを抱き締めたまま
不安げに和室の方の様子を見遣った。
「…三谷?」
その時、ヒカルは三谷が手に何か隠し持っているのに気付いた。ヒカルの
手首に巻き付いているヒモは鋭利な刃物で切られた跡を残していた。
「…三谷…!」
ヒカルの胸を嫌な予感が過った。
…『お前はもっと強くなるぜ、それは間違いない。オレが
強くしてやる…。』
だが、与えられたものは本当の強さじゃなかった。大きく引き離すの
ではなく「もう一度やったら勝てるのではないか」と客に思わせる程度に
打つように指示された。相手が店にとってのお得意さんの時は勝つ事は
許されなかった。
―もう、そんな居場所は、いらない。
(63)
緒方と沢淵は両方肩で息をしながら相手を組み伏せようとしていた。だが
身長は同じだが若干体重で勝る沢淵が有利だった。緒方も若い時は多少荒れた
時代があり、この手の“手合い”の経験が決して少なくはない。それでも
踏んでいる場数が違う。緒方の拳よりも沢淵のそれが決まる率が高くなり、
緒方の膝が床に着いた。それでも緒方は沢淵の足にとりついた。
「…許さん…貴様は…」
その緒方の頭に沢淵は容赦のない膝蹴りを入れる。
緒方の体が畳を転がり壁にぶつかる。頭を抱えて呻く緒方に沢淵は近付く。
「おとなしく碁だけ打っていればよかったなあ、緒方先生よ。」
沢淵は緒方の右腕をとって締め上げると人さし指を逆方向に折り曲げた。
ポキリ、と乾いた音がした。
「う…ぐあっ!!」
「同じ門下として救出に来るとは見上げた仲間意識だな。…だが、本音は
意外と先生も彼の事が気に入ったんじゃないのかい?」
そう言って沢淵は無言で立っている三谷の方へ顎を指し示す。
「…お前らと一緒にするな…」
さらに中指も掴んで同じ方向に力を入れる。同じ音が響く。
「ぐううっ…っ!」
緒方の端正な顔だちが苦痛に歪むのを沢淵は嬉しそうに眺めていた。
「緒方先生…!!」
和谷と伊角が叫び、押さえ付けられていた男が笑いだした。
「残念だったな。お前らの正義の味方のヒーローさんはしばらく
石が持てなくなりそうだぜ…へへっ」
「くそ…ッ!」
和谷が怒りで収まらない様子で唇を噛んだ。
(64)
その時ふわりと、赤い髪が沢淵の近くまで近付いていった。
「三谷!!、やめろー!!」
ヒカルの叫び声とほぼ同時に、顔を上げた沢淵に三谷が体当たりをするように
体をぶつけて二人で床に倒れ込んだ。
しばらく時がとまったように二人は動かなかった。
和谷達も一瞬何が起こったのか分からなかった。
ヒカルはアキラの頭を胸に抱きかかえていた。これ以上今のアキラに
ショックを与えるような場面を見せまいとするかのように。
「三谷、おまえ…」
沢淵は少し驚いたように、ゆっくり立上がった三谷を見上げる。
三谷は無表情に沢淵を見下ろしていた。
「う…」
折られた指を抱え緒方は立上がった。、蹴られた衝撃で頭を切り流れ出た
血で青色のシャツの肩口を黒く染めていた。そしてふらつきながら怪訝そうに
沢淵と三谷の方を見た。そして目を見張り息を飲んだ。
沢淵の腹部にナイフが突き刺さっていた。
だが、沢淵は騒ぐことなくなぜか嬉しそうに笑みを浮かべて三谷を
見上げていた。
「…“子猫”が、“虎”になりやがったか…」
三谷はただ黙って血に濡れた自分の手を見つめていた。
その目はやはり、虚無を見つめるように無表情だった。
(65)
病院で、ヒカルとアキラ、和谷と伊角、そして緒方は怪我の治療を受けた。
三谷も病院についてきていた。
沢淵は病院に運ばれて直ぐに手術を受けたが急所を外れ命に別状は
ないとの事だった。
連絡を受けて事情聴取に来た警察には緒方が対応した。
沢淵も意識があり聴取に素直に応じ、未成年者に対する暴行容疑を認めた。
―「…龍が…もう少しで手に入れられると思ったが…やはりオレには
無理だったか…」
自分の手を見つめてそう沢淵はくり返し署員たちの首を傾げさせた。
他の3人の男達は署に連行されて行った。
それでも一応、後からやってきた少年課の担当者に三谷はいろいろ話を聞かれ
今夜のところは帰宅を許された。
家族が駆け付けて来るまでの間、廊下の長椅子でヒカルとアキラは
寄り添い合うように座っていた。
救出されてから、アキラはずっとヒカルから離れようとせず診察台の上でも
ヒカルの手を握ったままだった。
ヒカルもまた決してアキラから離れようとしなかった。
長椅子の上でアキラが膝の上でヒカルの左手を両手で握り、ヒカルが右手で
アキラの右肩を抱き寄せていた。アキラは包帯を巻いた頭をヒカルの右肩に
もたれかけさせ目を閉じ、ヒカルはそのアキラの頭に顔をのせている。
そうしたまま二人とも動かなかった。
その姿でこの世に生を受けたように、一つの魂を二つの体で分け合ったように
二人は存在していた。
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