失着点・展界編 61 - 65
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アキラからメールを受ける事は非常に少ない。あったとしても大抵は事務的な
伝達事項の羅列で終わる。その時も、結局今夜は自宅に門下生らが集まって
イベントの内容等の結果報告することになりそうだと言う事と、明日は
午前中は棋院会館で用事があり、午後は「囲碁サロン」にいるという事が
記してあった。何故電話に出ないのだとか、そういう問いかけは一切無い。
「…つまり、塔矢も今夜はアパートに行けないってことか…。なんだ…。」
ヒカルはベッドの上に大の字になってフーッと息をついた。
今夜は、アキラに会えない。その結論だけは出たのだ。
ヒカルはすぐにメールの返信をした。
塔矢家の廊下で、アキラは携帯を見つめヒカルからの返事を待っていた。
着信音がなり、すぐにメール欄を開く。『わかった』という短い返事が
そこにあった。
「…進藤…、…何かあった…?」
アキラは携帯電話を強く握りしめた。
次の日、ヒカルは少し早めに出かける準備をしていた。駅前の碁会所に寄って
一度アキラに会っておこうと思ったのだ。伊角には「道玄坂」で待ち合わせる
よう連絡をするつもりでいた。
すると玄関のチャイムが鳴り、しばらくして母親がヒカルを呼んだ。
「ヒカル、伊角さんよ。」
リュックを肩に掛けようとしていたヒカルの表情が一瞬強張った。
あと少し早く、家を出るべきだった。重い気持ちで靴を履き、玄関を出る。
「…どこかに出かけるところだったのかい…?進藤…。」
確信犯的な目つきをした伊角が、立っていた。
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「…大手合いまで、そうやってオレを見張るつもり?」
思わず苛立ちをぶつけるような言い方をしてしまい、口を噤む。
「何のことだよ?ついでがあったから、早いかなって迷ったけどちょっと
寄ってみただけなのに…」
あの温厚な伊角が少し声を荒げて言い返して来た。
「用事があるなら、別にかまわないんだぜ。」
「ご、ごめん…。そうじゃないんだ…。」
慌ててそう謝り、ヒカルは赤くなった。伊角を恨むのは筋違いだ。
…アキラには後で、電話しよう。
ヒカルは携帯の電源を切った。
その頃アキラは「囲碁サロン」のドアを開けていた。ヒカルが来ているかも
知れないと思い、棋院会館での用事を終えた後飛ぶようにして駆け付けた。
だがアキラの期待は叶えられなかった。
「アキラ先生!、中国はどうでした?」
念入りに髪型を整えとっておきの笑顔で市河が尋ねてきたが、それには答えず
逆に問い返す。
「あの…進藤は…?」
「進藤く…先生?来ていないわよ。アキラ先生が中国に行く前の時以来。」
「…そうですか…。」
「アキラ先生、早めですが、よろしければ指導碁お願いできますか?」
約束を入れていた相手に呼ばれて、アキラはそちらに行こうとし、
「あ…、ちょっと待って下さい、」
と碁会所のドアを出て携帯電話を取り出した。ヒカルに電話を掛けてみる。
だが電話は通じなかった。何かに隔てられている、とアキラは感じた。
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「アキラ先生?」
ドアの外で思いつめたように立ち尽くすアキラに、市河が怪訝そうに
声を掛ける。アキラはハッとして携帯をポケットにしまう。
「お待たせしてすみません。初めての方もいらっしゃるんでしたよね。」
すぐにテキパキと準備をし指導碁に取りかかるアキラに市河は安心する。
だが、手順を説明しながらもアキラの神経はドアの入り口に集中していた。
時間は刻々と過ぎて行くのに、進藤は現れない。ようやく最初の組の仕事が
終わり間近になった時、一人が何気なく話しだした。
「やっぱり若い人の指導を受けるのはいいねえ。一昨日もプロになった
ばかりの若い子達3人が指導碁やってるとこがあって、賑やかだったよ。
アキラ先生と同い年位の…進藤プロだっけ。ここにも時々くる…」
「え…っ?」
ガタッとアキラが前のめりに立ち上がりかける。
「どこですか?そこは…」
「道玄坂」という碁会所の名前と場所を聞いたアキラは、すぐに出て行こうと
した。それに驚いて市河が声を掛ける。
「アキラ先生?次の指導碁のお客さんがもうすぐ…」
「すみません、市河さん。」
風のように階段を駆け降りて行くアキラを見て広瀬と市河は顔を見合わせる。
「アキラ先生、また進藤君を追っているのかい?」
「…あたしもあんな風にアキラくんに追っかけてもらいたい…。」
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…3人で指導碁?賑やか?
タクシーより地下鉄が速いと判断し「道玄坂」に向いながらアキラは考えた。
もしかしたら自分の思い過ごしかもしれない。ヒカルはただ携帯をどっかに
置きっぱなしにしたりして、マイペースにやっているだけかもしれない。
それならそれでいい。とにかく一度直接顔が見れればこの不安感は消える。
「道玄坂」という看板が出ているビルを見つけてエレベーターで上がり、
バンッとドアを開く。まだ人が少ない時間だったのか、静かに打っていた
数人の客らが怪訝そうに振り返った。
「と、塔矢アキラ…!?」
カウンターのところに居た夫婦が驚いたようにこちらを見る。
たった今自分が読んでいた日中の友好イベントの新聞記事を見ていた堂本も
その写真の本人を目の前にして興奮気味に声をあげる。
「何やってンだよマスター、色紙、色紙!」
中を見回すが、ヒカルの姿は見えなかった。
「突然ですみません。…あの、進藤くんは今日はこちらに来ていませんか?」
アキラの問いにマスターらと堂本で顔を見合わせる。
「進藤先生?一昨日は来てくれたけどねえ、今日はいないよ。」
「…そうですか…。」
気落ちしたように視線を落とすアキラを見て、マスターの後ろから妻が
ヌッと顔を出した。
「あの子ら、あの面子でまたこの辺の碁会所廻って遊んでるんじゃないの?」
その言葉にアキラは顔をあげる。
「思い当たる碁会所の場所を教えてくださいませんか。」
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ヒカルは伊角と共にある碁会所で打っていた。指導碁ではなく、相手に
4子、5子置かせてのやはり3面打ちであったが、一応対局であった。
最初の内はあまり気持ちが入らず時間ばかり気になっていたが、何局か
こなすうちに真剣になっていった。今度の手合いは自分にとっても大切な
ものだった。アキラに追い付かなくてはならない。
心が揺れるのは、弱いからだ。精神的にも、碁においても。黙々と対局に
没頭し始めたヒカルを見て、伊角も少し安心したような顔になった。
その時、ヒカルが背を向けている碁会所のドアが開く音がした。
伊角が、その方向を見て驚いた顔になり、ヒカルの相手も顔を上げて
「あっ」という表情になった。ドアを開けて入って来た人物が、真直ぐ
自分に向かって歩いて来る気配にヒカルの石を持つ手が止まった。
「…進藤…。」
ヒカルの全身の血が、その声がする方向に向かう。
ヒカルは先に伊角の方を見た。伊角は何も言わなかったが、フッと小さく
笑うと、「和谷には黙っていてあげる」、そう受け取れるように頷いた。
ヒカルはゆっくり立ち上がって振り返った。
肩で息をし、汗で頬に張り付いた黒髪を払いながら笑顔で立つアキラがいた。
…そうだった。こいつは、そういう奴だった。自分が感じるつまらない
隔たりや距離感など、あっという間に飛び越えて来る。
「…探したよ、進藤。」
「…ごめん…。」
二人で碁会所のドアを出て、そのビルの屋上に上がる。隣のビルの壁際で
周囲の建物からの死角になった場所で、どちらからともなく唇を重ね合った。
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