とびら 第五章 61 - 65
(61)
「緒方先生、オレ歩いて帰るから」
ヒカルは笑顔で言ったが、内心ではびくびくしていた。
そんなヒカルに緒方も柔らかな笑みを返してくる。だがその口から飛び出してきた言葉は
その表情に似合わないものであった。
「遠慮することはないぞ。心配しなくても、俺は車の中で何かしたりしないからな」
「いい加減にしてください!!」
アキラの罵声と、食器のぶつかり合う音がして、ヒカルは思わず肩をすくめた。
「緒方さん、そういうことは冗談でもおっしゃらないでください」
その声が怒りのためか震えている。表情もはっきり言って怖い。
こんなアキラに睨まれたら誰でも気圧されてしまうだろう。
ヒカルは今すぐこの場を離れたい気持ちに駆られた。しかし緒方は少しも気にしていない
ようで、小皿を引き寄せると煙草を一本取り出して火をつけた。
「緒方さん」
「食事が終わったからいいだろう」
「ボクは煙草の煙が嫌いなので、外で吸っていただけませんか。それに食器を灰皿の代わ
りにしないでください」
「まあ、そう目くじらをたてないでくれ」
深く吸い込み、わざと緒方は長く煙を吐き出した。
アキラは眉にしわを寄せた。緒方はその反応をおもしろがっているようだ。
緒方が煙草を揉み消すのと同時に、電話が鳴った。
アキラはためらうように緒方とヒカルを見た。
急かすようにベルは鳴り続ける。
アキラは立ち上がると緒方を牽制するように一瞥して、部屋を出て行った。
ヒカルはアキラが何を考えたかを察し、ため息をついた。
(塔矢も心配性だな。緒方先生がオレに何かするわけないじゃん)
冷めたお茶をすすりながらヒカルは緒方を見た。すると緒方と視線が合った。
ヒカルはどきりとした。湯飲みを持つ手に力が入る。
緒方は眼鏡を外し、それを置いた。顔が近付いてくる。
よけなければと思うのだが、ヒカルは動くことができなかった。
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まさかそんなことをするはずがない、とヒカルは唇が触れるその瞬間まで思っていた。
薄い緒方の唇がヒカルの柔らかなそれをなぞる。
ヒカルは捕らわれていたわけではなかった。身体を引けばすぐに離れることができた。
だがヒカルは逃れることはせず、緒方のキスを受け入れていた。
自分で自分が信じられなかった。
煙草の香りが口中に広がる。その舌も唾液もすべてが苦い。
ヒカルも煙草の臭いは好きではなかった。なのにもっと味わいたいと思ってしまう。
自分の意思とは関係なく、指先から緊張が少しずつ解けていく。
緒方が巧妙なのだ。そう気付いたときには、ヒカルは自分から舌をからめていた。
「んっ……苦しっ……」
ヒカルの息さえ奪いかねないほどに、緒方が思い切り舌を吸い上げてきた。
互いの吐息が交ざりあい、思考を焼かれるような感覚がヒカルを襲う。
遠くから聞こえるアキラの声も気にならなかった。
ただただ緒方がむさぼるように自分を味わうのを感じていた。
だが唐突に唇が離れた。ヒカルが見上げると、緒方は冷たいまなざしを自分に向けていた。
身体の体温が急速に下がっていく気がした。
「緒方先生……?」
「きみにアキラくんは任せられない」
ヒカルの心臓を握りつぶそうとするかのような、鋭い声音だった。
緒方は自分の胸もとをつかんでいるヒカルの腕をとり、せせら笑った。
「こんなふうに俺にキスされて嫌がるどころか、すがりついてくるおまえは、アキラくん
にふさわしくない」
ヒカルは慌てて手を引っ込めた。つかまれたところが痛い。
煙草の臭いがした。緒方から臭うのかと思ったが、自分の口の中に残るそれだった。
罪悪感が生まれる。追い討ちをかけるように緒方が言葉を続ける。
「まさか生のロマンポルノを見せられるとは思いもしなかったよ、進藤」
暗闇の中の緒方の瞳が思い出された。緒方は自分たちの情事を見ていたのだ。
自分の嬌態を見られたことに、ヒカルは恥ずかしさよりも戦慄を覚えた。
ヒカルはうつむいた。だが緒方はそのあごを強く挟み、無理やり顔を上げさせた。
「あんなふうに誘って喘いで、アキラくんをたぶらかしたのか」
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そのまなざしから、緒方が自分を軽蔑しているのが伝わってくる。
緒方の顔を見ていたくなくて、ヒカルは目線をそらせた。
「否定しないのか?」
「違う、って言ったって、緒方先生は信じないんだろ」
なげやりにヒカルが答えると、緒方はうなずいた。
「二人の少年を弄んでいるおまえの言うことなんか、たしかに信用できないな」
「もてあそんでねえよっ」
「おまえはそのつもりでも、他の二人はどう考えてるだろうな」
ヒカルは返す言葉を失った。
和谷のこともアキラことも、自分は傷つけている。
そのことをヒカルはわかっている。わかっているのに、傷つけてしまっている。
そんな自分が果たして弄んでいないと言い切れるだろうか。
黙り込んでしまったヒカルを、緒方は勝ち誇ったように見る。
「自分のしていることがわかったか。ならもうアキラくんを惑わすのはやめろ」
その物言いに怒りを覚えた。ヒカルは緒方の手を払いのけ、その目を見据えた。
「たしかにオレは二人にひどいことをしてる。けど、なんでなんにも知らない緒方先生に、
そんなふうに言われなきゃいけないんだ」
「俺も他人の恋愛に口をはさむような野暮なことはしたくない。だがそれがアキラくんの
こととなると話は別だ」
ヒカルは目をみはった。まさか、緒方は――――
「塔矢のことが、好きなの?」
「どういう意味だ」
緒方は険しい表情をしているが、何を考えているかは読み取れない。
「塔矢と、その、セックスしたいのかっていう……」
しどろもどろに言うヒカルを緒方はねめつけた。
「この色きちがいのガキ。サルみたいにヤルことしか考えられんのか」
「じゃあ違うの? ホントに?」
ますます眉をひそめる緒方を見て、ヒカルは自分でも驚くほど安堵していた。
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「俺はあの子を生まれる前から知っている。その成長を見てきたんだ。俺はあの子がこの
世界にやってくるのをずっと待ってたんだ。そしてついに、あの子は俺と向かい合う」
今度の本因坊リーグ戦のことを言っているのがわかった。
緒方の目は真剣そのものだった。
「俺は万全の状態のあの子を迎え撃ちたい。だがおまえは、あの子をかき乱す」
自分がアキラのためにはならないと、そう緒方は言っているのだ。
「進藤、俺はまだ十五歳だからとか、男同士だからとか、そう言うことはどうでもいい。
俺がおまえを認めないのは、おまえがアキラくんを想っていないからだ。本気でないなら
もう近付かないで欲しい。俺はあの子がおまえのせいでつぶれるのを見たくない」
兄弟子としての、真摯な思いが伝わってきた。
緒方はアキラをとても大切に思っているのがよくわかる。
もし緒方が本気でアキラを好きならば、自分では決して太刀打ちできないだろうと思えた。
「……塔矢は、いいな」
ぽつりとヒカルはつぶやいていた。
「こんなふうに、自分を想ってくれる人がいて、いいな」
かつて自分にもいた。温かく見守り、包んでくれる存在が。
「進藤?」
緒方がいぶかしげにヒカルをうかがう。ヒカルは無意識のうちに緒方の指に触れていた。
「……おまえ、寂しいのか」
そうなのかもしれない、と心の中でヒカルはつぶやいた。
自分は胸に空いた隙間を未だに埋められずにいる。
緒方は息をひそめ、静かに聞いてきた。
「だから二人に抱かれるのか。一人では、足らないのか」
何も答えようとしないヒカルの両肩を緒方は強くつかんだ。
「そんなことだと、二人とも失うぞ。おまえはそれでいいのか」
「いいよ」
一呼吸もおかずにヒカルは言った。緒方が愕然とした表情をした。
本当に失いたくない人をすでに失ってしまったのだ。だからもう――――
「いいんだ……」
ヒカルは緒方の指を離した。自分が求めているのはこの指ではない。
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緒方がとまどったようにヒカルを見てくる。どうしたらいいか考えあぐねているようだ。
「緒方先生、オレ」
ヒカルは何かを言いたくて口を開いた。しかし言葉が見つからなかった。
自分が緒方に何を伝えたらいいのかわからない。もどかしくて、ヒカルは緒方を見つめた。
緒方も自分を見つめてきた。だがすぐに緒方はためいきを吐いた。
「おまえは自覚があるのか?」
何のことかわからずヒカルが首をかしげると、ないのか、と口の中で緒方はつぶやいた。
「本当にたちが悪い。おまえの碁も、おまえ自身も。俺はおまえを見てると……」
緒方がためらいがちにヒカルの頬に触れてきた。指が迷うように、少しずつ動く。
ヒカルの唇に触れたとたん、緒方ははっとしたように手を引いた。
自分の指を驚いたように見ている。それからヒカルに視線を向けた。
ゆっくりとその表情が変化していく。
信じがたいというものから、徐々に何かを確信したものへと変わっていく。
ヒカルはなすすべもなくそれを見ていた。
緒方はそうか、とつぶやくとヒカルを嘲るように見てきた。
「そうやって同情させるのがおまえの手か。だが俺はだまされないぜ」
その一言にヒカルは目を見開き、何度も首を左右に振った。
「違う。オレ、そんな……」
緒方の視線がヒカルの言葉を奪う。
「自分が傷ついているからって、他人を傷つけていいわけないだろう。甘えるな」
胸ぐらをつかまれ、引き寄せられた。自分を見下ろすその目にぞっとする。
ヒカルは心のどこかで、緒方ならわかってくれるのでは期待していた。
だがそれはあっさりと破られてしまった。
もしアキラが関わっていなければ、緒方ももっと違った態度をとったかもしれない。
しかしアキラがからんでいる。だから緒方はヒカルを理解しない。
(塔矢を傷つけているかぎり、緒方先生は絶対にオレを認めない……)
だがこれだけはわかってもらいたかった。自分はアキラを大切だと思っていることはたしか
なのだということを。
しかし緒方の顔を見たとたん、それは無理なことなのだとヒカルははっきりと悟った。
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