とびら 第六章 61 - 65


(61)
自分の身体を何かが通り過ぎていくような気がした。
ヒカルはおのれを見下ろして、理解する。
過ぎていったのはアキラと和谷だ。その痕が肌に浮かび上がっている。
ヒカルは身になにもつけていなかった。
(オレ、なんで一人でこんな姿でいるんだろ。夢を見てんのかな)
その考えに心臓がすぐさま反応して大きな音をたてた。
夢ならば、自分の望むものを見せてほしいと願ったのは、いつのことだったか。
そう、あれは対局の後だ――――だれとの? 
不意にくすくすと楽しげな笑い声が聞こえ、ヒカルは考えを中断させた。
なに色とも表現しがたかったまわりの空気が、急速に色づきはじめた。
おだやかな風が吹き、晴れた空が見えた。花びらが降ってくる。
「みなさん、ホラ、佐為の君がお見えよ」
澄んだ声音が耳にとどく。同時に廊下のきしむ音も。
ヒカルの目のまえを佐為が歩いていた。


(62)
これは夢だとわかっている。
だからヒカルは息をひそめた。
佐為が歩を進めると、すだれの下から房飾りのついた扇が、その衣のすそを軽く押さえた。
「そのまま通り過ぎようなんて、つれないではありませんか」
困ったように笑うと佐為は立ち止まった。
すると軽い音をたててすだれが上げられた。見慣れない服を着た女たちがいた。
(オレこの服装、知ってる。十二単って言うんだ。佐為が教えてくれた)
国語の教科書に載っていた絵を見て、佐為はなつかしそうに笑んでいた。何枚も重ねて着る
からとても重いのだと、そう言っていた。
しかし見たところ、女たちは微塵もそんなそぶりを見せないで、身軽に動いている。
「ほら、こちらへ」
佐為はすでに用意されていた碁盤のまえに座った。
女たちと歓談しながら、石を置いていく。
華やかな装束の女たちと佐為。それはとても絵になっていた。


(63)
(これはオレの夢に佐為が出てきたんじゃなくて、佐為の夢にオレが出てるのかしれない)
ぼんやりとそんなことを考える。しかしどちらにしても、大きな違いはない。
佐為がここにいる。ヒカルにとってそれだけがすべてだった。
女たちは口元を扇や袖でかくしながら、佐為をうっとりとみつめている。
『私はこれでも文をもらったことがあるのですよ。それも一度や二度ではありません』
そう佐為は言っていた。文とはラブレターのことなのだろう。
たしかに碁を打つ佐為はきれいで、冴え冴えとしている。
どうして惹かれずにいられるだろう――――
「おや佐為の君。今日も碁ですか」
「わたしとも手合わせをお願いできますか」
通りかかった男たちが親しげに声をかけてくる。
それに佐為も笑顔でこたえている。
平安時代の佐為はとても幸せそうで、ヒカルはうれしくなった。


(64)
いつのまにかヒカルは浴衣を着て、どこかの部屋に立っていた。さきほどの場所と違う。
香のいい匂いがする。ここはどこだろうと左右を見る。
佐為が部屋の中央で、碁盤をはさんで誰かと向かい合っていた。
帝だ、とヒカルは思った。佐為は今、天皇の囲碁指南をしているのだ。
うっすらと幸福そうな笑みをその顔に浮かべている。
ヒカルはその横にしゃがみこみ、盤面をのぞきこもうとした。
だが佐為が立ち上がった。緊張しているのが伝わってくる。
その目の先を追い、そしてヒカルも身体をこわばらせた。
佐為とヒカルは廊下に立っていた。
向こうから一人の男がゆっくりと歩いてくる。
ヒカルは直感した。
この男だ。この男が佐為をおとしいれたのだ。
佐為は静かに頭を下げた。男がヒカルの横を通り過ぎる。声が聞こえた。

――――大君、囲碁指南役は一人で十分。


(65)
はっとして振り返ると、ヒカルはとても広い部屋にいた。
御簾のむこうに帝がいる。
まわりを貴族の男たちがとりまいており、すだれの後ろに女たちがいた。
みなの視線の先には、佐為とあの男がいた。
(御前試合だ……佐為!)
自分は知っている。この先になにが起こるかを。
男の碁笥に白石がまじっている。
ヒカルは手を伸ばした。何とかしなくてはいけない。
何とかして、佐為を助けなければ。
だが手はなにもつかまない。物に触れることのできない歯がゆさに目眩がした。
目前の盤はどんどん進んでいく。しかしその内容に注意を払う余裕などなかった。
見ているだけで何もできないというのは、なんとむごいことなのだ。
佐為の視線がふと不思議そうに揺らいだ。
男の手が、黒石のなかで白く光るそれをつかんでいた。



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