誘惑 第三部 63 - 64
(63)
序盤、穏やかに進行していった盤面だったが、更に進んだある局面、全く予想もしていなかった
場所へと打たれたヒカルの一手に、アキラの手が止まった。
―この手は…?
ヒカルの意図を探りながら、意識の一方でアキラは過去の記憶を辿った。
どこかで覚えのあるこの感覚。
いつ、どこでだったろう。
時折、進藤の碁の中に出現するこの手。
盤面を撹乱し、思惑を隠した誘うような手。
それは彼のヨミの深さと、定石にとらわれない思考の斬新さが編み出すもの。
だから彼の盤面は時々展開が、進行が読めない。
例えば洪秀英との一局。あの一手に似ている。
ではボクが今感じたこの感覚はあの棋譜を見たときの記憶か?
いや、違う。そうじゃない。棋譜を見てのことでない。確かにこの身に直接感じた事がある。
それは。
3年前の中学囲碁大会の三将戦。
そうだ。違うんだ。あれは。
序盤までは変わらなかった。何の違和感も感じなかった。
ボクが碁会所で打った、ボクが恐れ、憧れ、がむしゃらに追った進藤ヒカル、そのままだった。
けれどあの一手。
今思い起こせば、あの一手から流れは変わった。
まるで別人のように彼の手は崩れていった。
別人のように。
(64)
ボクの知る二人の進藤ヒカル。
あの時、ボクの目の前で二人は入れ替わったのだ。そうとしか思えない。
でも、そんな。
そんな事って。
盤面を追っていたアキラの思考が途切れ、十九路の上の白と黒の世界から現世へと引き戻される。
「進藤、キミは…」
手が止まり、無意識に言葉がこぼれた。
その言葉につられてか、ヒカルがちらりと窺うようにアキラを見上げた。
キッとアキラの眉が強くなる。
だがボクはそう簡単にキミの誘いに乗るつもりはない。
そう思って、次の手を放つ。
その一手にヒカルは唇を引き締め、顔を上げてアキラを見る。
盤を挟んで二者の視線がぶつかり合う。
互いに睨み合い、攻め合うように、厳しい音をたてて石が置かれていく。
両者の息が乱れ、頬は興奮に紅潮し始める。
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