誘惑 第三部 65 - 66
(65)
けれど、盤面を睨み、石の流れを、その行く末を追い、深い思索に入り込みながらも、その一方で
アキラの意識は分離し始めていった。今、自分は確かに碁盤に向き合い、白と黒の石の描く世界に
意識を集中させている筈なのに、意識の一方は盤面を離れ、浮遊していく意識は、自分と、更に盤
を挟んで座るヒカルを、はるか上方から俯瞰する。
もしかして、もしかしたらパズルのピースのほとんどをボクは既に手にしているのかもしれない、と、
浮き上がった一方の意識の内でアキラは思う。
集めたピースから見える信じがたいその絵は、けれどそれが真実なのかもしれない。
そしてボクはまたキミを追いながら、けれど湧き上がるその問いを封じる。
何度も、何度も繰り返した問い。
キミは一体何物だ?と、押さえがたいその問いを、アキラは封じ込める。
なぜならボクは言ったのだから。
キミの打つ碁がキミの全てだ。それだけでいい、と。
だからキミは応えてくれた。
いつか、話すかもしれない、と。
だから今はもういい。
ボクはボクの言葉を取り消すつもりはない。
「いつか」なんて日はもしかしたら永久に来ないのかもしれない。けれど、それでも構わない。
過去のキミが何者であれ、今ここに在るキミは、きっとキミの全てを賭けてボクに向き合っている。
だからボクもボクの全てを賭けてキミに立ち向かう。
どんな手でも放ってみろ。受けて立ってやる。
これがボクだ。ボクの全てだ。超えられるものなら超えてみろ。
来い、進藤。ボクはここにいる。
(66)
「ただいま。…あら、塔矢くん、来てるのね。」
ヒカルの母は買い物から帰ってきて、玄関の見慣れない靴を見て思った。
ヒカルったら、お茶くらい出したかしら。そう思いながら台所へ向かい、買ってきたものを入れようと
冷蔵庫を開けて、ケーキの箱に気付いた。
「まあ、塔矢くんたら、そんなに気を使わないでいいのに…」
塔矢アキラと言う少年は、本当に育ちのいい少年なのだな、と彼女は思う。友達に家に遊びに来る
のにこうやって手土産を欠かさず持ってくるし、言葉遣いも態度も、とても礼儀正しくて、ヒカルも少
しくらい見習ってくれてもいいのに、と思う。
碁の事はよくわからない。
けれど、初めて彼がこの家に来た時、ああ、この子なんだな、と思った。
同い年の男の子に思いっきり見下されて、そいつを見返してやりたいんだと、見たこともないような
真剣な目をしていたヒカル。この子がヒカルにあんな目をさせて、碁の世界に引っ張っていった。
囲碁のプロなんてどういうものなのか良くわからないし、正直言って、不安になる事も多い。けれど、
ああやって目を輝かせて夢中になれる事があって、それが周りにも認められて、それでやっていけ
るのなら、こんなに喜ばしいことはないのかもしれない。何も考えずに無難に進学して就職したり
するよりも、きっと、ずっといい。
それに塔矢アキラのような子と一緒なら、安心できる。ちょっと子供にしては堅苦しい所もあるよう
に見受けられるけれど、あの子はとてもいい子だ。
ちょっと前にはヒカルと喧嘩してたみたいで心配してたけど、仲直りしたみたいでほっとした。
とんとんと軽快に階段を上がり、部屋の前まで行ってドアをノックしようとして、彼女は手を止めた。
中から響く碁石の音に、彼女は小さく微笑んで、それから今度は足音を立てないようにそっと階段を
降りていった。
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