黎明 65 - 66
(65)
目覚めると傍らに彼の姿はなかった。
見計らったように童が部屋に入り、熱い湯を湛えた盥と清潔な上布を差し出す。差し出された布を
受け取り、湯に浸して絞ったその布で身体を拭き清め、傍らに綺麗に畳まれていた衣を身につけた。
と、外から水音が聞こえた。
衣服をつけながらヒカルは水音のするほうへ向かった。
屋敷の外から聞こえるその音へと戸を開くと、ピリピリと冷たい空気がヒカルの頬を刺した。
暁は山の端にまだその気配さえ見せておらず、外は夜と変わらぬほどに暗い。
その暁の闇の中、自らの吐く白い息の向こうに、白い人影が見えた。
井戸から汲み上げたばかりの、さぞかし冷たいであろう水を、何度も、頭からかけて身を清めてい
るアキラの姿を、ヒカルはそこに見た。
彼は水桶を脇に置き、目を閉じたまま頭を振った。切りそろえられた髪から滴が散り、微かに煌くの
が見えた。濡れて顔にかかる髪を手でかき上げながらアキラは立ち上がり、顔を上げて目を見開き、
ヒカルを認めた。
薄明けの闇の中に仄かに浮かび上がる白い裸身を晒したまま、アキラは静かにヒカルと対峙した。
眼差しは凪いだ湖の水面のように静かなのに、その身体はいまだ燃えるように熱く、冷たい井戸水
さえ、その熱のために皮膚の上で揺らめくのが見えるような気がした。
しかし彼は、つと視線を断ち切り、井戸の横にかけてあった白い布をとり、軽く身体を拭い、ヒカルの
横を通り過ぎて、そのまま室内へと入っていった。
暁光の気配が、東の空から次第に夜の闇を追い落とし始めていた。西の空に沈みかけている白い
大きな月は、山々の頂に姿を隠すのが早いのか、朝の光に溶けて消えるのが早いのか。
冬の早朝の重く冷たい、だが清浄な空気の中にヒカルは足を踏み出し、先程アキラがいた井戸へ
と歩を進めた。滑らかな石の上に残されていた水は早や薄氷となり、ヒカルの足の下で幽かな音を
たてて崩れた。井戸から一杯の水を汲み上げて手を清めると、水は痺れるほど冷たかった。
(66)
「夜が明ける。」
背後から静かな声が聞こえた。振り返るとそこに、衣冠に身を整えたアキラが立っていた。
ついに陽光がその姿をあらわし始める。
アキラの視線を辿るように空を仰ぐと、白い光が山の端からこぼれ、枯草に降りた白い霜が、陽に
あたってキラキラと輝いた。
東の空に目をやっていたアキラはゆっくりとヒカルに向き直り、静かな笑みを向けた。朝陽を受けた
白い顔が眩しくて正視していることができず、ヒカルは彼の笑みから視線を外した。だがアキラはそ
のままヒカルの濡れた手をとり、白い乾いた布で拭いた。
アキラは井戸端から邸内へ促すように先立って歩き、それから足元のヒカルの裸足の足を見て、尋
ねた。
「なぜ沓を履かない?」
「無かったから。」
ヒカルが憮然として答えると、その返答にアキラは僅かに呆れたように微笑った。そしてヒカルを縁台
に座らせ、自らは跪いて別の布で彼の足を拭き清めた。
こうして彼の手で足を拭き清めてもらう事など、もう、二度とないだろう。
いや、彼の手が自分に触れる事は、もう、ないのかもしれない。
全ては限られた刻のこの仮宿でしか得られない事なのだから。
その終わりの時が、刻一刻と近づいてきている。
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