誘惑 第三部 66


(66)
「ただいま。…あら、塔矢くん、来てるのね。」
ヒカルの母は買い物から帰ってきて、玄関の見慣れない靴を見て思った。
ヒカルったら、お茶くらい出したかしら。そう思いながら台所へ向かい、買ってきたものを入れようと
冷蔵庫を開けて、ケーキの箱に気付いた。
「まあ、塔矢くんたら、そんなに気を使わないでいいのに…」
塔矢アキラと言う少年は、本当に育ちのいい少年なのだな、と彼女は思う。友達に家に遊びに来る
のにこうやって手土産を欠かさず持ってくるし、言葉遣いも態度も、とても礼儀正しくて、ヒカルも少
しくらい見習ってくれてもいいのに、と思う。

碁の事はよくわからない。
けれど、初めて彼がこの家に来た時、ああ、この子なんだな、と思った。
同い年の男の子に思いっきり見下されて、そいつを見返してやりたいんだと、見たこともないような
真剣な目をしていたヒカル。この子がヒカルにあんな目をさせて、碁の世界に引っ張っていった。
囲碁のプロなんてどういうものなのか良くわからないし、正直言って、不安になる事も多い。けれど、
ああやって目を輝かせて夢中になれる事があって、それが周りにも認められて、それでやっていけ
るのなら、こんなに喜ばしいことはないのかもしれない。何も考えずに無難に進学して就職したり
するよりも、きっと、ずっといい。
それに塔矢アキラのような子と一緒なら、安心できる。ちょっと子供にしては堅苦しい所もあるよう
に見受けられるけれど、あの子はとてもいい子だ。
ちょっと前にはヒカルと喧嘩してたみたいで心配してたけど、仲直りしたみたいでほっとした。
とんとんと軽快に階段を上がり、部屋の前まで行ってドアをノックしようとして、彼女は手を止めた。
中から響く碁石の音に、彼女は小さく微笑んで、それから今度は足音を立てないようにそっと階段を
降りていった。



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