黎明 66 - 68
(66)
「夜が明ける。」
背後から静かな声が聞こえた。振り返るとそこに、衣冠に身を整えたアキラが立っていた。
ついに陽光がその姿をあらわし始める。
アキラの視線を辿るように空を仰ぐと、白い光が山の端からこぼれ、枯草に降りた白い霜が、陽に
あたってキラキラと輝いた。
東の空に目をやっていたアキラはゆっくりとヒカルに向き直り、静かな笑みを向けた。朝陽を受けた
白い顔が眩しくて正視していることができず、ヒカルは彼の笑みから視線を外した。だがアキラはそ
のままヒカルの濡れた手をとり、白い乾いた布で拭いた。
アキラは井戸端から邸内へ促すように先立って歩き、それから足元のヒカルの裸足の足を見て、尋
ねた。
「なぜ沓を履かない?」
「無かったから。」
ヒカルが憮然として答えると、その返答にアキラは僅かに呆れたように微笑った。そしてヒカルを縁台
に座らせ、自らは跪いて別の布で彼の足を拭き清めた。
こうして彼の手で足を拭き清めてもらう事など、もう、二度とないだろう。
いや、彼の手が自分に触れる事は、もう、ないのかもしれない。
全ては限られた刻のこの仮宿でしか得られない事なのだから。
その終わりの時が、刻一刻と近づいてきている。
(67)
彼の後について部屋へ入ると、そこにはヒカルのための衣装が用意されていた。
言葉もなく、女房の手がヒカルに衣を着せ掛けていく。
アキラはそれを静かに見ていた。
真新しい衣に袖を通す。なれぬ布地の硬さが肌に心地良かった。
髪を整え冠をつけると、頬にかかる老懸の陰が少年の顔に精悍さを添える。
一枚、また一枚と衣を重ね、出仕のための正装に身を整えていくと、かつて、初めて検非違使と
して宮中へ上がった日のことを思い出す。期待と緊張と慣れぬ衣冠にガチガチに硬くなっていた、
幼い子供だった自分。都を守るのだと、その為に自分はここに在るのだと、そして自分には何が
できるだろうと、腰に挿した太刀を握り締め、緊張に震える手を押さえようとした。
そして都を守る検非違使となった自分はそこであのひとに会った。優しく美しく、けれど激しい魂
を持ったあのひと。あのひとを守りたかった。あのひとを守るのが自分の使命だと信じていた。
そのひとを、守りきることはできなかったけれど、それでもきっとオレにはまだなすべき事がある。
守らなければならないものがある。
目を見開くと、そこに一振りの太刀を差し出すアキラがいた。
息を止めてヒカルはその太刀を受け取る。手に馴染む懐かしいその重み。その重さを確かめる
ように両手でそれを捧げ持ち、それからゆっくりと腰に差した。
腰にかかるその重みに、ヒカルの顔が引き締まる。
朝陽の差し込む室内に、新しく生まれ変わった若く美しく凛々しい少年検非違使が、朝の光に
負けぬほどの強く清い眼差しで、すっくと立っていた。
(68)
真っ直ぐに前を見据えて、ヒカルは歩き出した。
そうしてこの仮宿に言葉にならぬ別れを告げながら、ヒカルは初めてこの屋敷の門をくぐり、外界
へと足を踏み出す。門の外に出たヒカルは、振り返ってアキラの顔をじっと見つめた。
もはや交わすべき言葉も無い。
別れの時を迫るように、朝がその明るさを増す。
どちらからともなく互いに向かって手が伸び、最後にただひとたび、友としての抱擁を交わす。
それぞれの熱い身体を確かめ合い、それからゆっくりと彼らは身体をはなした。
無言の笑みを交わしたのちに、ヒカルはアキラに背を向ける。
そうして歩き出したら、彼はもう振り返る事はしなかった。
屋敷の主は、ただ、去り往く少年検非違使の後姿を見送っていた。
振り返らず真っ直ぐ歩く後姿がだんだん小さくなり、通りの角を曲がるのを見届けてからやっと、
彼は通りに背を向けて門を閉め、霜と朝陽に銀色に輝く草を踏み分けて家の中へと戻った。
白く透明な朝の光が、誰もいない門を照らす。
都が次第に目覚め、朝のざわめきに充たされていく中、ひっそりと静まり返った屋敷が、ただ一人
取り残されていた。
<完>
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