裏階段 アキラ編 66 - 70
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ふいにアキラが声を大にし顔を上げた。思わずこちらも煙草を銜えて火を点けるという
一連の動きを止め、そんなアキラの顔を見つめた。
「あ、…いえ。恥ずかしいのは確かです。でも、それは負けた事がではありません。
彼の一手一手は素晴らしいものでした。対局の後できちんと検討をしていれば
得られるものが大きかったはずなんです。それなのに、ボクは…」
アキラは両膝の上の手を固く握りしめた。
「ボクは、負けた事ですっかり余裕をなくして、彼が何かをボクに話し掛けてくれていたのに
それに応えられなかった。心の中でボクは叫んでいたんです。早くどっかに行ってしまってくれと。
君の言葉は聞きたくないと。…そんな自分の姿が思い出されて、嫌なんです。」
「…それだけかな?」
「えっ?」
「…いや、何でもない。」
銜えた煙草に火を点けて一息吸い、吐き出す。
彼の頑固さは良く分かっている。彼がそうと決めたものは、誰にも変えさせる事は出来ない。
「…打とうか。」
「お願いします。」
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アキラはマンションに来なくなった。その少年にアキラは夢中になっていた。
もう一度その少年が碁会所に来る事がないかと、学校以外の大半を碁会所で
待ち人顔でアキラは過ごしている。そのくせ本当に彼がやって来たらどうしようと怯えているのだ。
そうして会えないまま日が過ぎる毎にアキラの熱意は宙に浮き、答えの出ない問題用紙を抱えて
途方に暮れているといった様子だった。
手合いの相手をする度こちらに救いを求めて来るのは感じた。だが無視した。
先生とあの少年が僅かだが打ち合った事を知ってアキラは驚き、少しでも何か情報を欲しがって
いるように見えた。ただ、先生からは多くを聞けないらしい。
先生は確信がない話はしないからだろう。少年に何か感じるところはあったはずだが、
当然オレにも話したりはしない。
そしてオレも、それに関する話題はそれ以上一切アキラとしなかった。
少年との手合いの棋譜を隠したまま救いを求める事が間違っているのだ。
たかが子供同士の手合いだ。なぜそれをそこまで隠す。
まるで大事な秘め事でもあるかのように。
だがアキラはその事に気付いていない。自覚していない。
嫉妬と言われれば、そういう類のものかもしれない。妙にこちらも意地になっていた。
そんなある日、やや興奮した面持ちで、アキラが突然マンションを訪ねて来た。
その少年、進藤と再会したのだと言う。
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「今度受験する海王中の校長先生に呼び出されて行って来たのですが、ちょうど今日、
中学の囲碁の大会が海王中で行われていたんです。そこに、進藤が葉瀬中の生徒として
出場していたんです。」
部屋にあげてアキラの為にこちらが紅茶用の湯を湧かしに台所に立っている横で
彼は興奮気味に捲し立てた。
「中学生の大会に?進藤が?」
「腕を見込まれて頼まれたんでしょう。結局それで葉瀬中は失格になりましたが…、
でも、三将戦ではありましたが、進藤が海王中相手にとても素晴らしい碁を打っていました…。」
アキラはお茶を入れるのを手伝い、二つのティーカップをトレーに乗せてソファーのある部屋に運ぶ。
オレはキッチンで煙草に火を点け、一息二息吸ってから移動した。
本音を言えば、ドアホンが鳴ってその相手がアキラであるとわかった時は嬉しかった。
いつまでも現れない相手を待つのに疲れてここに来たと思った。
オレと2人で過ごす時間を恋しがってやって来たのだと、そう思ったのだ。
ソファーの長椅子のアキラの隣に腰掛けた。
アキラはネクタイにベスト、半ズボンという服装だった。
海王中から直接ここに来たのだろう。進藤に再会した興奮をそのままに。
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「進藤の実力は、間違いありません。今日見たあの碁も、おそらく全力のものではなく
彼のほんの一部分でしょう。初めてボクと打った時もそうでした。強いだけではないのです。
彼の中に揺るぎない碁に対する神聖な気持ちが伺えるんです。対局を見た者に
素直に感動を与える程の…」
「…えらい誉めようだな。」
「でも本当にそうなんです。彼が葉瀬中に進学するのがわかっただけでも良かった。」
アキラは高揚した気持ちのままにまるで自分に言い聞かせるように話しを続ける。
「間違いない、彼は、進藤は…。あんな碁を打てる人は、他にいない…」
紅茶に口をつけることなく、アキラは自分の両手を開いて見つめ、強く握る。
そんな彼の肩に手を置く。アキラはオレの方を向いて、ニコリと笑んだ。
「今度進藤を碁会所に連れて来ます。緒方さんにもぜひ…」
そのアキラの言葉を遮り、顎を指で軽く掬い上げて、唇を軽く重ねた。
アキラの体が僅かに強張るのを感じた。
久しぶりのキスだった。
顔を離すと、アキラは黙ってオレの目を見つめていた。
そこには今までなかった動揺する光が見て取れた。
そんなアキラを見て、進藤の存在がアキラの中のオレに対する感覚すら変えつつあるようだと
感じた。それでもまだ、アキラは自分からはオレから離れようとはしなかった。
そして自分からキスを返そうともして来なかった。
ただ、アキラは何かを迷っているように見えた。
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「…どうかしたのか?」
「…いいえ、…。」
もう一度アキラの顎を引き寄せ、唇を重ね合わせた。今度は深く、長くそれをした。
アキラの肩に置いた手に力が入った。アキラはじっとしていて動かなかった。
顔を離すとアキラは小さく息を吐いた。
「オレが怖いか?」
アキラは首を横に振った。だが僅かに膝が震えていた。
「…緒方さん、ボク…、今日は…これで…」
そう言いかけるアキラの頬を手の平で押さえ、再び唇を唇で捕らえ舌をその中に差し入れた。
ビクリと、アキラの体が竦むのがわかった。
今までは決してしなかった行為だった。彼に対してしようと思わなかった類のキスだ。
アキラは反射的に口を閉ざした。
怯えた目でオレを見つめている。それでも何故か体を離そうとしない。抵抗しようとしない。
その時、オレは自分でも自分が何に苛立っているのかわからなかった。
「…口を開きなさい。」
そのオレの言葉に、アキラは一瞬大きく目を見開いた。
しばらく間があって、閉じていた唇を躊躇いがちに開く。
「もっとだ。」
素直に従ったのか、それとも何か言葉を言おうとしたのかもしれない。
さらに開いたアキラの唇を塞ぎ、深く舌を絡め入れる。
今まで空気を通してしか感じなかったアキラの甘い味と匂いを濃厚に感じ、貪った。
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