裏階段 ヒカル編 66 - 70
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設定した関門が突破されたのなら更なる難関を設置したくなるなるものである。
逆コミというハンデを背負っての進藤との戦いに名乗りをあげたのは、先生が自らその関門を
かって出てたようにも思えた。
「アキラくんのためですか?」
棋院のエレベーターで先生と2人で乗り合わせた時に何気なく尋ねてみた。すると先生は
静かに笑い、答えた。
「…いや、もしかしたら…あの子には恨まれるかもしれん。」
オレとしてはようやく桑原との一戦から精神的な落ち着きを取り戻し、流れ的に誰もが予想した
結果を覆して若手の覇者倉田を叩き潰してやった直後だっただけに、気持ち的に余裕があった。
アキラが進藤のプロ試験の件でピリピリしているのを面白く見させてもらった部分がある。
人が気負ったり焦ったりするのを目の当たりにすると反作用として周囲は冷めてしまうものだ。
ただ先生のその言葉が気になって、その日、新初段シリーズが行われる日本棋院会館に
自然足が向いた。
冷えた張り詰めた外気の中に空のどこか遠くで降る雪の細やかな欠片が混じる日だった。
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寒空の下の棋院の古めかしい建物はそれとなく出入りする者に威圧感を与える。
院生の時とは違った空気を進藤はこの先一生嗅ぎ取っていくことになる。
プロ試験に合格したということは、修羅の道を歩む者として選ばれた人間ということになる。
真っ当な人生は歩めまいと選定され、神に同情され生きる界隈を与えられたにすぎない。
建物の周囲にはもう人影はなかったが、恒例の記念写真で先生の隣で進藤がどんな
緊張した面持ちで並び立ったか、想像すると可笑しかった。
と同時に戦慄にも似た薄ら寒さを感じる。
「今まで誰とも碁を打った事が無い」と言いながらふらりとやって来た少年。
その言葉が決してウソではないというのは、進藤の石の持ち方からアキラも先生も
同じ判断をしている。
そんな子供が、あの塔矢洋行と並び立ち、囲碁界の専門誌の片隅に収められる。新初段シリーズの
扱いはそんなに大きなものではないが、先生が久々に、しかも相手を指名しての登場に
編集部が多少色めき立つのも仕方がない。先生からくれぐれも従来通りに、と念を押されたようだが。
鼻の効く有能な記者なら、何かが動き出そうとしていると嗅ぎ分けるはずである。
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確かに世の中には経験値を超える、類稀な先天的なセンスの持ち主は存在するだろう。
だが、若獅子戦を見た限り進藤は少なくともオレにはそういうタイプには見えなかった。
ただかなりの熟練者によって正しい指導は受けているとは思った。筋の選び方に気負いが無く
常に先を見越し手をかけるのを惜しまない奥行きのある碁を打つ。
勝敗が見えるまでその場に居たのも、進藤の碁に面白さがあったからだ。
進藤が唯一参加していると言う森下九段の棋風はよく知っているが、進藤に森下との共通項は見られない。
森下のその師匠くらいがしっくりくる。あくまでイメージだが。
ともかく先生とアキラよりも覚めた視点で進藤を観察し見極めるのがオレの役目だと思った。
「無理矢理言うならイタコに、碁の神様が乗り移ったってところか。…フッ。そんな神様がいるなら
オレのところにも降りてきてもらいたいものだ」
先生との対局ならば進藤がその瞬間を見せるのではという期待があった。わがままな神様が観客をも
選ぶと言うのなら難しいかもしれないが。
おそらく、間違いなくアキラも来る。
こちらとしても今日はヤボな好奇心は抑え、粛々とアキラと共に先生が施す進藤の通過儀礼を
見守るつもりでいた。
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「ホオオ、緒方くんじゃないか。久しぶりじゃのう」
対局をモニターで見られる記者室のドアを開けた瞬間一気に不愉快な気分になった。
タイトル戦以外の場では一切接触を持ちたくない相手が満面の笑顔でそこに居たからだ。
「こうやって面と向かうのは本因坊戦依頼か?あの7番勝負はたのしかったのオ、
ひゃっひゃっひゃっ」
しゃがれた金属音に近い耳障りな声でいかにも楽しげに笑う。
ここ最近の桑原の勝率は決して良い方ではない。だがほとんどそれを気にする様子もなく
えらく上機嫌そうである。
オレに会えたのが嬉しくてしょうがないらしい。
普段と違ってジャケットにセーターという比較的ラフな格好だったのが興味を引いたのか、
いつもにも増して舐めるようにオレの頭から足先まで全身をねっとりと眺める。
視線から逃げれば増々楽しませるばかりだと思い、あえて桑原のすぐ真正面の席に腰を下ろす。
桑原が差し出した煙草を断り、桑原のものよりは若干軽く、派手なデザインの自分の煙草を銜え
火を点けると、黄ばんだ歯を誇らし気に見せてしゃがれた笑い声を立てる。
ファッションで煙草を吸う世代と言いたげらしかったが、この場で桑原と煙草談義を
始める気はなかった。
まだ他に編集部の者らが来て居ないだけましだと思う事にした。
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「今日はたかだか新初段の対局…いくら名人が打つからといって緒方くんほどの者がわざわざ
見に来るようなものじゃない。…するとやはり」
上機嫌な笑顔から一転して桑原が鋭く眼光を光らせる。
「この小僧が新しい波を起こす1人なのかな?」
思わずギクリとした。名人塔矢行洋が新初段シリーズの相手に進藤を指名した事と、オレが以前に
口にした「新しい波」を直感的に結び付けられた事に。
思わず露骨に不安げに桑原の顔を見てしまった。
「…進藤をご存じなんですか?どこかで彼の碁を見た事が…?」
「ほほう!そうなのかやはり!ワシのシックスセンスもたいしたもんじゃ!」
桑原が破顔する。
「シックスセンス?」
唐突に桑原の世代に似つかわしくない単語が飛び出て来た事に面喰らう。
「第六感じゃよ。進藤とは一度すれ違っただけでな」
「すれ違っただけ?」
話が見えて来ず苛立つ。つくづく喰えないジジイだと思う。
「…バカバカしい」
吐き捨てるように口にする。理屈でなく、その時の気分は悪かった。
進藤という存在をもうしばらく自分のテリトリー内でそっと観察したかったからかもしれない。
それを目敏く嗅ぎ付け興味津々にやって来た輩に思わず警戒心を強める。
まるでアキラに替わって必死に進藤を保護しているような気持ちだった。
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