誘惑 第一部 66 - 70
(66)
かちり、とカギの外れる音がした。
鍵穴から鍵を引き抜いてポケットにしまい、それから緊張に強ばる手で、ドアノブをゆっくりまわした。
「…塔矢?」
いるはずがない。さっきからチャイムを鳴らし、ドアを叩き、名を呼んでも応えはなかったのだから。
それでももう一度、ヒカルは玄関に足を踏み入れながら、小さな声で恐る恐る部屋の主の名を呼んだ。
薄暗い部屋の中から、返事は返ってこなかった。
(67)
合鍵をもらったときは嬉しかった。
ちょっと照れくさそうにアキラがそれを差し出したときの事を、よく覚えている。
「進藤、これ、」
差し出されたものが何を意味するかわからず、ヒカルはきょとんとしてアキラを見返した。
「ここの、鍵。持っててくれる?」
そう言って手のひらの上にそっと置かれた鍵と、アキラの顔を交互に見た。
「…いいのか?」
「持ってて欲しいんだ。受け取ってくれる?」
帰り道、ずっと、大事に、大事に、無くさないようにポケットの中のそれを握り締めた。
家へ帰って、握り締めたままのその鍵を自分の机の上にそっと置いた。
机の真ん中に置いた鍵を上から、横から、いろんな角度で見てみて、それからまた手にとって、目の
前に持ってきてじっと眺めた。
何の変哲もないただの鍵だけど、それは特別で、とても大事な、すばらしい宝物のように見えた。
けれど今まで使う事はなかった。
この部屋に来るときは大抵二人一緒だったし、そうじゃない時も必ず電話でいる事を確認してから
部屋を訪ねたから。それでも、使う事はなくても、それは大事な宝物だった。
一番気に入りのキーホルダーをつけて、いつもポケットに忍ばせていた。
一緒にいたいのに隣にアキラがいないような時、そっとポケットの中の鍵を確認した。合鍵がアキラ
の分身のようにも思えたし、これさえあれば、会いたい時には、会おうと思えばいつでも会える、
そんなふうに思っていたから。
それをなぜ、こんな時に、こんな気持ちの時に、初めて使う事になってしまうのだろう。
(68)
和谷の部屋を出てから、目的もなく歩いていたつもりだったのに、気付いたらアキラのアパートの
目の前に来ていた。
部屋の前に立って、軽く息を吸い、それからチャイムを鳴らした。
けれど応えはなかった。
部屋の中からは何の音も聞こえず、何の気配も感じなかった。
それでも、ドアを叩いて、部屋の主の名を何度も呼んだ。最後には怒鳴りつけるように。
いない事はわかっているのに。
単に留守をしている、それだけなのだろうに、自分が拒絶されているような感じがしてしまった。
オレが来ているのに、どうしておまえはいないんだ、と文句を言ってやりたい気分だった。
そして、やはり今日もポケットの中にある鍵を探り、それを握り締めた。
この部屋が自分を拒絶しているはずがない。
この鍵の存在が、自分がここに受け入れられる事を、証明してくれている。
それなのに、確かに手の中に鍵はあり、それを使えばドアを開けられることはわかっているのに、
それでもそのドアは冷たく自分を拒絶しているような気がしてならなかった。
手の中に握り締めた鍵を感じ、閉ざされたドアを見上げ、それからぎゅっと目を瞑った。
ヒカルは迷っていた。
帰るか、ドアの外で待っているか、それともこの鍵を使って中に入り、中で彼の帰りを待っているか。
そして目を開けてぎっとドアを睨みつけ、ポケットから鍵を取り出した。
緊張しているせいか、なかなか上手く鍵穴に入らなかった。
この鍵は確かにここの鍵である筈なのに、扉だけでなく鍵穴でさえ自分を拒んでいるような気がした。
けれどやっと鍵穴に入った鍵を、そうっとまわす。
かちり、とカギの外れる音がした。
(69)
靴を脱ぎ、誰もいない部屋にあがり、見慣れたはずの室内を見回す。
主のいない部屋はがらんとして、なんだか物寂しいような空気を感じた。
それは、最初にこの部屋を訪れたときにも感じたような気がする。
この部屋はなんだか空っぽで寂しい。
でもその時感じた寂しさはその時きりで、それからはここではいつもアキラと二人だったし、
この部屋にいる時は大抵抱き合っているか、そうでなくてもどこか触れ合っているような状態
だったから、アキラを感じるのに精一杯で、寂しいなんて感じる暇はなかった。
けれど今一人でこの部屋にいると寂しくて、そして何だかどんどん不安になってくる。
どうしてだろう。
ついこの間までは、いや、ついさっきまで、何の問題もないと思ってた。
オレは塔矢を好きだし、塔矢もオレを好きだ。
疑った事なんてなかった。
お互いにとってお互いが一番に大切な存在だ。
なのにどうして今はこんなに塔矢を遠く感じるんだろう。
馴染んだはずのこの部屋がこんなにも冷たく感じるんだろう。
早く、帰ってきてくれよ。
オレを不安にさせないでくれよ。
おまえがいないからいけないんだ。
会えばきっと、オレの不安なんかなんでもないってわかるはずなんだ。
だから、早く帰ってきてくれよ、塔矢。
(70)
玄関でガチャガチャと音がして、ヒカルは顔を上げた。
ドアを開ける音がし、玄関の小さい灯りが点けられた。
「進藤?」
すぐにヒカルを呼ぶアキラの声がした。
「進藤?来てるんだろ?どうしたんだ、灯りも点けないで…」
アキラの声が近づいてくる。
そして、薄暗がりの中にしゃがみこんでいるヒカルを見つけて、そこにかがみこんだ。
「進藤?」
心配そうに名を呼ぶアキラの胸元を掴んで引き寄せ、噛み付くように唇を重ね、貪った。
アキラは戸惑いながらもヒカルに体重を預けて、ヒカルのキスに応えた。普段なら素直な反応が
嬉しいはずなのに、なぜだか腹立たしく感じてしまって、きついくらいに抱きしめながら、尚も乱暴
に攻め立てた。唇を離してもなぜだか顔が見れなくて、アキラを抱きしめたまま、耳元で確かめる
ように訊いた。
「おまえが好きなのはオレだろう?あいつじゃないだろう?そうだよな…?」
「しん…どう…、何を突然…」
「ヒカルって呼べよ!進藤なんて、呼ぶなよ!
そんな…そんな、他人行儀な呼び方、いつまでもすんなよ……アキラ!」
そう言うとヒカルは身体を離し、アキラの肩を両手で掴んで彼の顔を正面から見た。
「オレ、今日、和谷んち言ってきたんだ。」
アキラを睨みつけながら、低い声で、ヒカルが訊いた。
「あいつ、おまえをやったって言った。本当なのか。」
手の下でアキラの体が強張るのを感じる。けれど目はヒカルを見たままだった。
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