誘惑 第三部 66 - 70
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「ただいま。…あら、塔矢くん、来てるのね。」
ヒカルの母は買い物から帰ってきて、玄関の見慣れない靴を見て思った。
ヒカルったら、お茶くらい出したかしら。そう思いながら台所へ向かい、買ってきたものを入れようと
冷蔵庫を開けて、ケーキの箱に気付いた。
「まあ、塔矢くんたら、そんなに気を使わないでいいのに…」
塔矢アキラと言う少年は、本当に育ちのいい少年なのだな、と彼女は思う。友達に家に遊びに来る
のにこうやって手土産を欠かさず持ってくるし、言葉遣いも態度も、とても礼儀正しくて、ヒカルも少
しくらい見習ってくれてもいいのに、と思う。
碁の事はよくわからない。
けれど、初めて彼がこの家に来た時、ああ、この子なんだな、と思った。
同い年の男の子に思いっきり見下されて、そいつを見返してやりたいんだと、見たこともないような
真剣な目をしていたヒカル。この子がヒカルにあんな目をさせて、碁の世界に引っ張っていった。
囲碁のプロなんてどういうものなのか良くわからないし、正直言って、不安になる事も多い。けれど、
ああやって目を輝かせて夢中になれる事があって、それが周りにも認められて、それでやっていけ
るのなら、こんなに喜ばしいことはないのかもしれない。何も考えずに無難に進学して就職したり
するよりも、きっと、ずっといい。
それに塔矢アキラのような子と一緒なら、安心できる。ちょっと子供にしては堅苦しい所もあるよう
に見受けられるけれど、あの子はとてもいい子だ。
ちょっと前にはヒカルと喧嘩してたみたいで心配してたけど、仲直りしたみたいでほっとした。
とんとんと軽快に階段を上がり、部屋の前まで行ってドアをノックしようとして、彼女は手を止めた。
中から響く碁石の音に、彼女は小さく微笑んで、それから今度は足音を立てないようにそっと階段を
降りていった。
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交わす言葉はない。
白と黒の石が、一つ、また一つ、会話を交わすように置かれていく。
ある時は自陣を守り、別の一手で相手に切り込み、そしてまたある時は置かれた石の意図を探る
ように、問いを投げかけるように、また一つ、石を置く。
時折窓の外から聞こえていたはずの車の音も、子供の声も、室内のエアコンのうなりも、聞こえ
なくなる。
十九路の盤とそこに向かい合う二者の世界が濃密に凝縮され、それらを囲う現実が薄れていく。
ただ、互いの打つ一手一手が、向かい合う相手と自分とで作り上げられていく盤面だけが世界の
全てになる。
たった二人で、十九路の盤面と白と黒の石から作り上げる宇宙。
そこには誰も入ってくる事はできない。
ボクはキミを探り、キミはボクの手を読む。探りあいながら、ヨミ合いながら、ボクたちは誰にも辿
りつけない深みへと沈んでいく。
打っているからこそわかる。ボクにしかわからない。キミにしか理解できない。この世界の深みは。
そうやって作られていく自分を含めたこの小宇宙を、はるか上方から見下ろしていた意識が、盤上
の一点に吸い寄せられる。同時に、精密な計算をめまぐるしく繰り返していたアキラの頭脳が、ある
一筋の路に辿りつく。
何かに操られるように指が白石を一つ挟み、そこを目指して動く。
乖離していた意識が指先で一点に集束する。
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静かに置かれた石に、ヒカルは息を飲んだ。
思わず顔を上げると、それに気付いて盤面を睨んでいたアキラがゆっくりと顔を上げ、鋭い視線
が真っ直ぐにヒカルを見た。
その眼差しに、心臓を貫かれたような気がした。
真っ黒な瞳が放つ鋭い光に、ヒカルの背に戦慄が走る。
だがヒカルも負けじと目に力を込めてアキラを見返した。
そう簡単にやられるもんか。
おまえがそうやって攻めて来るんなら、オレだって。
そうして返したヒカルの手に、アキラの片眉が僅かに動き、白い能面のようだった表情が揺らぎ、
一瞬、その唇は笑みの形を形作る。
そして次の瞬間にはまた面を引き締め、黒い瞳から発せられる鋭い光は更に苛烈さを増す。
塔矢が、大きく見える。
飲まれちゃいけない。これ以上、圧されちゃいけない。
でも。
息をするのも苦しい。まるで塔矢の周りで空気が、凝縮されてるみたいだ。
まだ諦めない。どこかにあるはずだ。まだ、攻め入る隙が。
諦めたくない。負けたくない。このまま圧倒的な塔矢の力の前にむざむざと敗れてしまいたくない。
ヒカルのこめかみから汗が滲み出る。強く噛み締めた奥歯が、ギリ、と音を立てる。
そしてアキラの手は更に容赦なくヒカルを攻め立てる。
「…ありません。」
ついにヒカルは苦しげに敗北の宣言を搾り出す。
じっとヒカルを見据えていたアキラは厳しい表情のまま息を止めてその言葉を受け止め、数瞬の後
にゆっくりと息を吐き出し、それからやっとその顔を和らげた。
そしてもう一度軽く深呼吸するとアキラは頬に小さな笑みを浮かべながら目を閉じて頭を下げた。
「ありがとうございました。」
アキラの声にヒカルもやっと呼吸を取り戻し、同じように頭を下げる。
「ありがとうございました。」
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厳しい対局で予想以上に消耗した二人は、一旦休憩しよう、というヒカルの提案で階下に下りる
ことにした。
にこやかにアキラを迎えたヒカルの母に丁寧に挨拶をするアキラを見て、ヒカルは半分感心し、
しかし半分では、呆れた。たかが友人の母親相手に硬すぎるんじゃないかと。
それから、紅茶を入れてもらい、アキラの買ってきたショートケーキを3人で食べた。
久しぶりに会った息子の友人に色々と話しかけるヒカルの母に、アキラがそつなく応える。
ヒカルの母は、大抵の母親という人種がそうであるように、おしゃべりが好きで、話し出したら止ま
らなかった。しかも通常なら話相手にならないような年代の少年が実に愛想よく応じるものだから、
彼女は嬉しくなってヒカルの事や、アキラの事、碁界についての不安や疑問など、話題はあちら
からこちらへと飛び回り、尽きようともしなかった。
最初は、自分を話題に出されると、「お母さん、そんな事まで言わないでよ。」と、口を挟んでいた
ヒカルは途中から話題についていこうとするのはやめて二個目のケーキに手を出そうとしたが、
目聡く見つけた母に「ホントにお行儀悪いわね、アンタは。少しは塔矢くんを見習いなさい。」など
と小言を言われて頬を膨らませた。
コイツもよく、こんなニコニコしていつまでも相手してるよな、とヒカルは内心悪態をつく。
オレなんて近所のオバサンや親戚のオバサン達にこんな風につかまるとすっごくウゼェって思う
のに。この愛想の良さはなんだよ。ホントに外面だけはいいヤツ。
それにしても、いつまでたっても終わりそうにないのに焦れて、とうとうヒカルが言った。
「なあ、塔矢、検討しないの?」
「ああ、うん、ちょっと待って。」
ちょっとじゃない。もうだいぶ待ったぞ。そう思ってアキラを突っつく。
「だから待てって言ってるだろう。」
「だからもう待ったよ!そんなどうでもいい話いつまでもしてんなよ。検討するんだろ?ホラ、」
そう言ってアキラの腕を取って強引に引っ張ろうとする。その手をアキラがパシッと叩いた。
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「全く、失礼なヤツだな、キミは。ボクは今はキミのお母さんと話をしてるんだ。」
「ホントにごめんなさいね、塔矢くん。躾のなってない子で。」
「あ、いえ、そういうつもりじゃなかったんですけど…。」
「だからさあ、いつまでそんなオバサンのおしゃべりに付き合ってる気だよ。
ってゆーか、お母さんが悪いの。もお、いつまでもつまんない話で塔矢引き止めんなよ。
塔矢はオレのなんだから、早く返してよ。」
「進藤!」
いきなり叱り付けるように呼ばれて、ヒカルはびっくりしてアキラを見た。
「キミは!仮にも自分の親に向かってその口の利き方は何だ。」
「な、口の利き方って、なんだよ、普通じゃん。」
「普通なものか。大体キミはいつも目上の人に対する態度がなってない。
仮にもプロなんだから、いつまでも子供気分でいないで少しは改めたらどうなんだ。」
「なんだって?いきなり話し飛ばせんなよ。大体、それじゃ、おまえみたいに態度使い分けるのは
じゃあ、どうなんだよ?」
「ボクがいつそんな事を?」
「はあ?いつだってしてるだろ。自分だって外面良いとかって言ってたじゃねぇか。」
「それとこれとは別だろう。礼儀をわきまえるのは態度の使い分けなんかじゃない。」
ヒカルの母は目を真ん丸くさせて、いきなり子供のような言い合いを始めた二人を見た。
塔矢くんて、まあ、落ち着いた子だと思ってたけど、そうでもないのね。ふふ、可愛いわ。
「まあまあ、ヒカルも塔矢くんもそんなケンカしないで、」
と彼女は放っておくと止まりそうにない二人の間に割って入った。
「お母さんも悪かったわ、いつまでもオバサンの相手させちゃってごめんなさいね、塔矢くん。」
「あ、いえ、とんでもないです。」
殊勝げに応えるアキラに向かって、彼女はにっこり笑いかけた。
「ウチの子も本当にしょうがない子ですけど、
塔矢くん、ヒカルをよろしくね。」
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